敗戦布告。

 

 

初めから負けているのなら、僕らが守ろうとしているものは何なのでしょうか?

誰かを殺してまで。掬いとろうとしたものは?欲しいものはもう何もないかもしれないのに、どこに行きたいというの。

 

いつもいつでも逃げたいよ。けれどどこに逃げるというの。逃げたら逃げた分だけ追いかけてくる。添加物にまみれた風景だって愛せるはずさ。

 

生きることが文学だ

今吐く息、吸った声が文学だ

書かれたものは一回死んだもの。

じゃあこれを読んでる君は生きてる人?

 

店を開け続けることが唯一の抵抗運動。

負けを認めて、けれど負けたのだから、これ以上負けやしない。

誰も殺さないために僕は僕自身に銃をむける。

忘れもの。

お昼をやけに静かで暗い食堂ですませて、出ようとしたとき、マフラーがないことに気づく。机の下を覗き込んでみても見つからない。おそらく、さっき乗ってきたバスに忘れたらしい。忘れ物の問い合わせの電話をいれて、調べでみますので、夕方頃に再度問い合わせをしてくださいと返事を貰う。

陰気な気持ちで、喫茶店に入って珈琲を啜る。

 

緑のマフラー。緑のチェックのマフラー。

去年の冬に人から頂いたマフラー。

今晩あたりから急激に冷えるらしいから、首元がより寂しい。いや寒しい。

 

思えば、今まで色んなものを忘れて無くしてきた。家の裏山登りに熱中していた中学生時代、父親が持っていたガスバーナーを勝手に持ち出し、ひとり湯を沸かしてインスタントコーヒーを飲んでいた。ませていた、というか我ながら変わった子供だった。何回かそうやって使っていたとき、家に帰るとリュックに入っているはずのガスバーナーがない。リュックをひっくり返しても見つからない。山に落としてきてしまったようだった。父親には小さく怒られた。

 今年の10月頃に福岡に旅行にいった際は、何軒か呑み歩いているうちに、お気に入りのポケットラジオをなくした。案内をしてくれた、古本乙女のカラサキさんには「きっと何かの不幸の身代わりになったんだよ」と励ましの言葉をかけてもらう。なるほどとその時は前向きになったものの、自分の不注意さに暗くなってしまった。

 日々暮らしていても、靴下を片方なくしては家じゅうを探索する羽目になるし、(無くすことを予期してユニクロで靴下を買うときは同じ柄を3つ買うことにしている。片方ずつ靴下をペアにして履けるから。情けない処世術だ)、読みかけた本を、お店に置いたまま忘れてしまっていたり、雨があがればさっきまで持っていた傘を置き忘れて呑気に家に帰り、コンビニにいけば、会計をすませたあとの商品をうけとることを忘れていたりする。

 

思えば、忘れ物ばかりしている。

そうして、忘れたことが徐々に無くしたことに変わっていく。人から受け取った、頂いたものを毎日忘れては無くし、いつのまにか無くしたのこと自体を忘れている。忘れものだらけの日々をボーゼンと繰り返している。

 

反省してないわけじゃない。

気をつけようとはしている。

けれど、忘れものをするときはいつも予期しないタイミングで忘れ、無いことに気づいた時点で振り返る時間を持つことになる。気をつけてはいても、人は忘れていく。大事なものからひとつずつ。そういえば、あのマフラーはどんな顔して僕は受け取っていただろうか?まだ去年のことなのにそれすらも忘れている。

 

 

旅先の京都。今年何回めかの京都。

今晩あたりから急激に冷えこむらしい。

外は雨が降り続いている。

僕は二杯目の珈琲を注文する。

この日のことも僕はたぶん少しずつ忘れていく。時間におかわりがあるなら、僕は何杯おかわりしたらいいんだろう。もしマフラーが見つかったら、それはどこにあるのだろう。

 

外は  雨が降り続いている。

 

 

二〇一五年一月ノ京都ハ雪。(サークルKサンクスの思い出)

サークルKサンクスが、11月末をもって無くなるらしい。ファミリーマートに変わっちゃうらしい。広島ではあまり馴染みのないコンビニチェーンだったが、学生時代を過ごした京都ではだいぶお世話になった気がする。

入学する前に父親が京都市街地図を僕にくれた。そこに記載されている「K」の文字を見つけながら、ああ違う街に来ちゃったなとも感じたのを覚えている。

大学の先輩は、サークルKサンクスを「マルケー」と呼んでいた。看板が○にKだから、マルケー。真似してそう呼んでみると、不思議な親近感を覚えた。友達のニックネームのような。

 

悲しいかな、平成生まれの僕らの心象風景にはコンビニエンスストアも含まれるように思える。

 

伏見区深草に自分の城を築いた大学生の僕は、そのマルケーで不健全な肉体になる食べ物を沢山買った。缶ビール、菓子パン(マルケーのメロンパンが一番美味いねんと言っていた友達はどうしてるだろう)、友達の家に持っていく急ごしらえのお菓子、呑み会帰りのカップ麺。コンビニ弁当は不思議と買わなかった。

 

あんなに嫌いだと言っていた煙草もそこで、買った。初めて買った煙草は赤色だった。先輩に重すぎるから違うのにしたらと言われて「ライト」と書いてある青色の煙草に変えてみた。タールはさらに重くなっていた。ライト違い。安いのにしてみようとオレンジ色の煙草を買って、あまりに不味くて惨めな気持ちを噛み締めてみたり。(辻仁成をぶん殴りたくなった。)

 

そういえば、あの街は公園が多かった。この季節には公園の木も紅葉していた気がする。金木犀の匂いも好きだった。

 

サークルKサンクスの個人的な思い出をもうひとつ。

2015年、1月1日。

実家で年越しをした僕は、新幹線で京都に帰っていた。卒論がまったく進んでいなかったし、早くアパートに戻って続きを書かなくちゃいけなかった。その時期、僕は個人的なことで、かなりしんどかった、えらかった、たいぎかった。下ばかり見てた。

京都駅にもうすぐつくときにふと窓の外を見ると、線路が白くうっすらとしている。

 

雪。

 

元旦の京都は夕方から雪が降っていた。

とても綺麗で嫌な気持ちにもなった。

そわそわとして、ひそひそとした京都駅に着いてすぐ僕は地下鉄に乗った。

 

「なめらかマンション」と勝手に呼んでいたアパートに着いて、僕は何もしなかった。外ではまだ雪が降り続いている。

夜、大雪の街を散歩に出てみた。呑み屋の前に大きな雪だるまを見つけて少し嬉しくなったが、すぐ暗くなる。どうしてか、ただただ悲しかった。寒かった。それは覚えている。

 

翌朝、煙草を買いにマルケーに行った。

あんなに積もっていた雪はちらちらと駐車場に残っているだけだった。汚かった。

買ってすぐ、マルケーの外で一本。

吸いながら、また下を向いてしまう。

エンドレスリピートでドレスコーズの「パラードの犬」を聞いている。

 

うらぶれのリゾート サリー・アストン
はかない夢と いたずらに添う

メスカリン
コンガ
すりきれの愛情
ロートレック
愛想笑い
ビ・バップ

それと サリー・アストン

色褪せたリボン サリー・アストン
アスペラ咲いたよ 大切な花壇

防砂林
ランバン
ラベルのない小瓶
ボードレール

ローレライ
イン/アウト

それと サリー・アストン

「パラードの犬」作詞 志磨遼平

 

煙草の灰を下にそのまま落としていた。

落としても落としても、

次々と灰は降ってきた。

灰、灰、灰、灰。

灰色。

煙草の灰だったと思っていたのは雪だった。

灰色の雪。あるいは雪のような灰。

 

「二〇一五年一月ノ京都ハ雪」

 

サークルKサンクスの派手な色だけが灰色の風景のなかで妙に浮いていた。

 

 

そんな思い出の三色も無くなるらしい。

もし灰色のなかで、あのお店が緑と水色だったらその時の印象は違っていたと思う。

 

今、調べてみるとサークルKサンクスの「サンクス」は太陽のように暖かく明るい「SUN」とありがとうの「Thanks」をかけ合わせた造語らしい。ちょっと恥ずかしい気持ちにもなる。名前にではなく、その時の自分がその「暖かさ」に少なからず救われていたことに。

 

あの時の自分に代わってありがとうを伝えたい。

 

 

 

 

 

深夜3時、異常なし

 

「今夜もオープンしました。23:00-27:00.」

 

おそらく昨日もオープンしました。

たぶん明日もオープンするでしょう。

繰り返し繰り返した行いを

続けていくこと。

お店とはと考えることも

一時放棄して。

 

 

あの本を書いた人はもう死んだ人

あの本を買った人はまだ生きてる人

まだ生きているとは、本が読めること、本を買えること、本を贈れること。

そして、あなたはあなたの生活を綴れるということ。

 

 

「深夜の本屋が夢だったんです」

東京からきたあの人、野良猫と一緒にやってきた人。その一言で僕は救われたんだ。

 

「ええなぁ、あんたは女の子見ながら金が貰えて」

足の悪いおじいさんが200円握りしめて深夜に。そんな彼のジョークに僕は笑ったんだ。

 

「がんばってくださいよ」

いつも応援してくれている近所のお坊さん。

その夜は赤ら顔。本を沢山帳場にもってきての一言。彼の言葉を理由に僕はお店を続けれている。

 

就活スーツの女の子。面接帰りだろうか。過去の自分と重ね合わせてしまい、多めに声をかけてしまった。大人たちはどうして現実を怖くしてしまう。僕たちはささやかな幸福を抱きしめたいだけなのに。

 

若い地元の新聞記者。ちょうど彼に合うと思った本が入荷していた。ニコンの本、彼の愛機はニコン。「これはいいですね。こんな写真はデジカメでは撮れない」

その一言に僕も生かされて。

 

「よく2人で弐拾dBの話をするんです」

京都からの髭のお兄さん。昔彼女さんときましたよね。たしかレコードの話や、京都の話をしましたよね。誰かの声の中で一瞬でも生きれたことを、僕は。

 

夜に隠した言葉、朝になる前に見つけた答え、

ただラジオの音楽に耳を傾けた時間

 

声のない、声。

ここにいない、あなたの。

ここにいたあなたの。

いつも、そこにいるあなたの。

 

 

我儘で傲慢な高飛車な思いだけれど、

この人の、あの人の声を守りたいと思ってしまうのだ。一瞬だけでいいから。

そのためにも、僕は僕の生活を守らないといけないのだ。

 

 

歴史の最前線で、未来の最後尾で、

脱走兵の僕は誰も殺さないための銃を握る。

 

 

夢の中で初雪をみた。

夢の中で初雪をみた。

外の路地に薄っすらと雪が積もり、空を見上げると白いのが絶えず降っていた。

今朝もよく冷えたからだろうか。シェアハウスの同居人が毛布をかぶせてくれていた。薄いブランケットに顔まで包まり、寒そうにしていたらしい。早く二階の自室へあがればよいものを、怠け者は棺桶をソファでこしらえる。

 

不思議な夢だった。でも綺麗な雪だった。

その日は(夢の中の、その日)は新開に呑みにでようしていた。なにやら、新しい立ち飲み屋ができたらしい。早足で路地をかけていくと、あったあった。赤提灯と、紺の暖簾。ガラス扉のむこうは蛍光灯の下でおでんの湯気。そうだよ、これだよ。僕が近所に欲しかった呑み屋はこれ。さっと呑めて、さっと酔えるお店。ちらりと覗くと地元の爺さんたちがひとりとふたり。昼間から赤ら顔の様子。今日はこのあと用事もあるし、さきに済ませてから、あとで来よう。

もと来た道を引き返し、シェアハウスに帰った。そこで場面は途切れて、というよりは忘れた。も一度、さぁ呑みに出ようと引戸を開けると路地に薄っすらと。見上げれば次々と。

後ろを振り返り同居人のバクト君に

 

「おい、雪だよ雪!積もってるよ」

 

自分でもびっくりするくらいのはしゃいだ声がでた。え、ほんとにぃと返事を聞いて、路地に出ようとしたら、目が覚めた。

 

本物のバクト君は、台所に立って洗い物をしている。本物の僕はソファに沈んでいた。

「雪を見たよ。夢の中で。初雪だよ」

よく覚えてるねぇと鼻で笑われながら、僕はも一度毛布の中へ。恋しいというか、惜しいというか。ここで惜しいのは雪か、はたまた酒か。「どちらとも」というのが本音か。

 

雪見酒の季節まではまだ遠い、

秋のとある朝の話。

頭にはフケが積もっている。

 

孤独を飼いならして、時々可愛がる

雑誌CREA11月号にて、選書の機会を頂いた。

名だたる日本全国の本屋の店主さんもとい、書店員さんの名前のなかに自分の名前があるのは、身分不相応とも思いながらも有難い限りだと思う。

 

 お店をされている方には、雑誌の取材やテレビ取材などメディア露出を好まない方も少なくないけども(逆にメディアに出ることにのみに心血を注ぐ人もいる)僕はお声がかかればなるべく出させていただくようにしている。何がきっかけでお店を知ってくださるかは分からない。少しでもお店のことを知っていただいて、未来の常連さんに出会う確率が増えるのであれば、自分自身をネタにしてでも世間に顔を晒す手はない。僕自身、雑誌の特集記事やテレビ放送で知ったお店も沢山あった。もちろん取材してくださる方々も同じ人間であるのだし、大切なお客さんのひとりなのだから、あまり無下に断りたくない。

 

CREAの掲載では「本の処方箋」ということで、雑誌読者の悩みに書店員が本の選書で答えるといった趣旨の頁。(おそらく、僕のお店が元医院であることや薬袋モチーフの書皮を本に巻いていることから今回お声がかかったのだと思う。店主の力量よりも元の物件としての磁場にいつも救われている)

 

ちらりさらりと、読んで頂いた方にはご存知の通り、質問は30歳を越した独身女性の孤独に向き合うものだった。仕事も充実していて、結婚したい訳でもないが、どこか心にふと訪れる不安にお勧めの一冊を。

さて、まだ25歳でまともに会社に勤めたこともなく、結婚もできそうのない青二才が何をお勧めしたらよいのか。その人の声や顔、服や好きな音楽に本も知らないのに本を紹介するというのは暴力的な気もする。無責任だとも。

同時に、人は他者の無責任に救われることもあると僕は思う。何気ない酔っ払いじいさんの一言を金言として受け取ることだって僕たちにはできる。むしろ相談話に対して生真面目に反応されてしまうと気恥ずかしくなる。適度に流しつつ、気の利いた一発の台詞が欲しかったり。僕はそうだった。無責任に人は救われる。

 

僕が何の本を選んだかさておき、

孤独について。

 

孤独といったって、僕たちはその言葉の本来の意味を理解できていない。たぶん、今までもこれからも。孤独のなんたるかも知らずに、なんとなく使ってしまう。孤独。実はその孤独とやらは、美味しいものをたらふく食べたり、愛しい人とのひとときを過ごすことによって薄くすることができる。し、実は孤独を手放したいとも思っていない。孤独感が綺麗さっぱりなくなれば、今度は乞い求める。その繰り返し。

 

僕たちが普段飼いならしてる孤独は、荒野のただ中にあるものというよりは、コンビニなどで売られているものに近い(スーパーマーケットよりも少し割高な)

時々買い足して、消費して、使い捨てる。

心が空いたらまた買い足して、消費して、使い捨てる、孤独。

 

そんな孤独に対して、本にできることは何か。

それは自分の感情に少しの輪郭を与えることではないのだろうか。頁に書かれた言葉を噛みながら、徐々に吞み下す。体に取りこまれた言葉は形にならない感情に輪郭を与え、触れることのできるものにする。本には無数の言葉によってできた多重の輪郭がある。その輪郭の一片をしばしお借りする。

 

僕は孤独を捨てたりしないで、飼いならす。

小さく撫でて、可愛がる。

時々噛まれた先から血が流れても、

私たちは悲しく笑う。

 

閉じられた時間と開かれた部屋

今夜も深夜に古本屋を開けている。

なるべく、毎日開けていていたい。のは、お客さんのためにというと偽善的すぎる。どちらかというと、やはり自分のためだ。店を閉めていたのでは本は一向に売れていかないのだし、つまりそれはお金が僕の懐に入ってこないということを意味し、お金が懐にないということは明日呑むためのお酒が無いことに結実する。定食屋の美味しいカレーも食べたいし、たまの休みには遠出をして暖かい温泉にも入りたい。

日がな暮らしを楽しむためには、それなりに本を売っていかなくてはいけない。ここは僕の図書館ではない。

 

無恥ながらに無知ではあるけれども、

ここは古本屋であり、本屋だ。

 

けれど、店を開けることが、開け続けることが自分のためなのはもう一つ別の理由があるのも感じている。

23時に看板に電気をつけて、扉を開ける。

寒い日も暑い日も。風の日も雨の日も。豪雨の日も断水の日も。すると、ひとりふたりと店にはお客さんが訪れる。しばらくすると、帳場に一冊二冊と本を持ったお客さんが帰ってくる。

電卓を打つ。お金を頂く。本を渡す。一言二言世間話をする。ありがとうございます、おやすみなさいを言い合う。

こんなささやかなことが、お店として当たり前で自然なことが僕はやはり心底ありがたいのだ。

 

生活の一部でも、旅の途中でも、

さまざまな事情や都合、言い訳と嘘と、不幸と幸福があるなかで、この場所を、この古本屋を選んでくれたこと。嬉しくないはずはない。

 

本という「商材」を扱いながら、つくづくこの本とやらは不思議な物体だと思わされる。

お客さんが様々なら、本もさまざま。

繰り返し読まれ完全にへたった文庫本もあれば、まったく開かれることもなく新品にも近い文学全集の類もある。いかがわしい裸体を写した写真集があるかと思ったら、おそらくこの先一生行くことがないであろう異国の路地を写した写真集もある。何十巻も続いた漫画がある横には一巻で打ち切りになったキャラクターが笑っている。初々しいカップルが愛しあっているラブストーリーの部屋の横では、男と女が痴話喧嘩を繰り広げている部屋があったりもする。

早く死んだ本もいれば、長生きした本もいる。

人間もしかりか。

 

僕は度々に自分の店を一冊の本のように捉えて見てしまう癖がある。頁を(扉を)開けば、今日も一行ずつつに物語は続いていく。が、この本を書いているのは店主である僕ではない。どちらかといえばお客さんと、やはり本。その時間がこの物語を紡いでいるのかもしれない。僕は登場人物のひとりか、語り部のひとりに過ぎない。そんな「弐拾dB」という一冊の本をアマゾンよりも大きな「世界」という本屋から選んでくれたことは、語り部としても嬉しいことこの上ない。

 

 

本は閉じられた時間と開かれた部屋だ。

あなたはいつでもそこに帰ることができる。

その時までいつも本棚で待っている。

 

もちろん、「本」に本屋というルビを振って読んでいただいてかまわない。