古本潜水

 

夜、僕は扉を開ける

夜、僕は窓を開ける

電気をつける  ラジオの周波数をなでる

 

本たちは今日も棚のなかで眠っている

にもかかわらず僕は起こしてしまうのだ

彼らが子なら、僕は布団をはぐ親だろうか

可愛い本には旅をさせろ、と言ったりか

 

23時開店。

「夜」という海に

今日も一隻の古本屋が浮上した。

 

ひとりの旅人がきた、ひとりの少女がいた、

酔っ払いの哲学者がいた、公務員がいた、

無職がいた、労働者がいた、日焼けの男がいた

無数の恋人たちと、求婚者と求道者がいた、

 

ひとりとひとりがいて、

ふたりがひとつになり、

さんにんに変わっていく。

 

昔の自分がいて、本屋がいた。

夏が去り、秋が微笑み、

冬眠り、春が目を覚ます。

 

いつのまにか

手渡したものよりも

託されたものが増えていた

 

 

言葉を交わしてでしか見つからないものがある

(言葉を交わしながら隠した時間もあった)

言葉を交わさず見つかるものもある

(言葉を閉じ込めながら触れた視線も)

 

時々、人は本に見つめられているのだ

本に読まれているのかもしれない

ぼくたちの生活も一冊の本だとすれば

古本屋は何円で買い取るのだろう?

 

と、僕は今日も言葉を泳ぎながら

月をかじり、夜をめくっている

 

 

27時閉店。

「朝」という海へ

今日も一隻の古本屋が沈みゆく

 

夜をやり過ごす時間

深夜。

この街を脱走したくなりませんか?

目的地はどこでもいいんですが、

例えばファミリーレストランでいいんですが、何からの脱走か分からないんですが、

まぁまぁ仲のいい友達を途中で誘ってですね。互いに本とか持っていったりして(もちろん読みかけの漫画でもいいんですよ。僕はめぞん一刻です)

車の中ではラジオが流れているような。

天気概況が流れているような(明日も暑いらしいねぇ〜だりいねぇ〜とかコメントもありつつ)

 

会話もまぁ、そこそこに。

お腹空いてる?まぁそこそこに。

あ、コンビニ寄っていい?とか聞かれたりとか

そういう、時間。

 

脱走だなんて言っても、隣の市ですし

ファミリーレストランに行っても、きっと話すことないですし、

きっと救われないだらうし、

救われたいのかもわかりません。

 

ただ、ちょっとこの時間をやり過ごすのに、

窓から見える風景を変えたかっただけです。

ただ、ちょっと自分の中で喋る声が大きすぎるから、誰かの喋り声が聞きたかっただけです。

ただ、夜、今起きているのがひとりではないことを知りたかっただけです。

 

と言ってみたけれど、どれも違うかもしれません。

 

夜をやり過ごす時間

僕は、そんな古本屋になりたいな。

 

という曖昧な答えのようなもので締めてみる。

 

 

ここまで書いて、

今夜も僕は夜に古本屋を開けています。

 

栞と文庫

栞ほどの悲しみを

文庫本ほどの幸福に

挟みながら暮らす

 

幸福を読み始めるごとに

悲しみを抜き取る

その栞をなくしてまうと、

どこまで読んだか分からなくる

残りの幸福の時間を時々見失う

 

幸せはいつもポケットに入っている

君と半分にする予定の饅頭や

帰りがけに渡すべく用意した便箋

夕焼けをアテに吸うための青い煙草

日常を愛するための、ひとつの詩集

 

幸せは手で掴める大きさが心地よい

そして、

そこに悲しみを忍ばせておくがいい

 

甘さに含まれた苦味があった

見えない文字で書かれた言葉があった

明日昇らないことを祈った夕日があった

愛せない者たちの声が耳元に響いていた

 

乾いた風が吹くたびに

私は何かを掴んでは、何かを離してしまった

 

「現在」と書かれた頁を見失わないために

私は「悲しみ」という栞のありかを、

また探している。

 

 

 

断水中の営業時に思ったこと

 

暇は余すときに余しておく

金は使えるときに使っておく

酒は飲めるときに呑んでおく

 

時間に無駄遣いという瞬間はないのだから

 

 

本は読まなくてもいい

読まれなくたっていい

そう読まなくてもいいし

また、読んでもいい。

 

本はそうあってほしい。

ただ、そこにあるということ。

それが、どれだけの強さで脆さかと

誰かのためというよりは

あのときに救われた

(またいつか救われる)

自分のためだ

日常を続けようと

人は言葉を続ける

 

 

本は閉じられた時間と

開かれた部屋だ。

あなたはいつでも

そこに帰ることができる

 

(断水中の営業日に思ったこと)

 

水を飲む

ひとりの男が立っていた

畑の畦道の上で

車が通るたびに白い煙がまう道で

向こうの山は低くも高く

さらにその上はいつもながらの青だ

いつもながらの青だのに

いつもながらの光があるのに

その下にいる僕らは光沢を反射しない

先ほどまで艶やかであった暮らしの品々は

泥にまみれ、水に濡れ、壊され、

何かを産むためにあった手たちは

スコップを握り、

泥にまみれ、汗に濡れ、捨てるために使われた

 

男は水を飲む、塩を舐める、西瓜を食らう

 

生きるためにというよりは、

死ななかったためであろうか

あるいは、声に時間を与えるかのように

水を飲んでいる。 

 

 

さようならの響きで(弐周年の挨拶に代えて)

「お久しぶりです。お元気ですか?」

と、僕が呼びかけている相手は誰だろう。誰に向けて毎日、僕たちは声を発するのだろう。

きっと僕たちは毎日会っているのに。会話も声も顔も合わせていないのだけれど会っている、のに。電車の中で自分を含めた乗客が全員スマートフォンを触っていることに気づいて、その光景の異常さに気づいてしまう。そっとポケットにしまう、前を向く。窓の向こうは、街。自分が今を見過ごしている、街。僕は、黒田三郎の詩を思い出そうとしてみる。ポケットにある誰かの声の影を感じながら。

 

 

 四月二十日をもちまして、無事古本屋弐拾dBをオープンして2周年、いや弐周年を迎えることができました。月並みな言葉にはなってしまいますが、ひとえにお客さま、取り引きのある出版社さま作家さま、多くの支えてくださっている方たち、皆さまのお陰です。

本当に今さらながらにはなってしまいますが、ありがとうございます(この文章の下書きはすでに春の段階にあったのですが、書けないまま季節は夏になってしまいました)

 

なんとか嘘みたいなお店が生き残ることができました。「10年はお店を続ける」という根拠のない微かな目標をもっていながらの2年という月日は思いのほか、僕にとって長いものでした。「あれ、まだそんなもんだったかしら」といった感じです。それも日々訪れるお客さん達が個性豊かな方が多く、決して一日、一晩、一年という単位では推し量ることのできない、1頁とも呼ぶべき物語的な時間の経過のお陰かもしれません。

 「BAR レモンハート」という古谷三敏の酒場うんちく人情漫画が、実家の父親の棚に並んでいるのですが、それを高校生のときに勝手に拝借、よく読んでいたことを最近ふと思い出しました。

都会の港街の外れのようなエリアの一角にポツンと現れる行灯看板。扉を開けると、静かめのBGMでラジオが流れていたりレコードだったり。カウンターのいつもの席には季節外れのコート。ちびりちびり飲む常連客風の眼鏡の男。もうひとりはスーツ姿。人懐こい髭を生やしたひょうきんな男でウーロンハイなんぞを呑んでいる。そうしてお酒ならなんでもあるといった酒瓶の数と、それを背にして立つ人優しそうなマスター。

毎晩、繰り広げられるマスターと常連客のメガネさん、松っちゃんとのほのぼのとしたやり取りを読みながら「こんな、ちょっと惚けた感じのお店が深夜の街角にあったら面白そうだなぁ」と子供ながらに感じていました。今現在の僕は、お酒を出すようなお店ではないですが、個人的にはそんな雰囲気が好きで、深夜の古本屋として近しいものになれたらそれはそれでよいな、と。この頃は思っています。(もっぱらお店ではお客さんよりも僕のほうがよく呑んでしまっているかもしれません。呆れた店主と言われればそれまで)

 

書きたいことが山ほど溜まってはいるのですが、砂山が高くなればなるほど崩れやすくなるが如く。思いついてはだらだらと思考が崩れていく日々。だから今日はこれまで。

こうしてまた、一から平になってしまった砂(言葉)を固めていく作業を地道に続けていこうと思います。その作業は僕にとって、本を売ることを選んだ身として、そもそも本とは、本屋とはなんなのかを考える時間でもあるのかもしれません。

 

 

 

 

「少女よ
  そのとき
  あなたがささやいたのだ
  失うものを
  私があなたに差し上げると」

黒田三郎「もはやそれ以上」より

 

声にはならない声で(年始の挨拶に代えて)

こんばんは。

あるいは、おはようございます。

それともこんにちは。

いいや、あけましておめでとう

なにがめでたいのかは知らないけれど。

 

きっと君もあなたもそうだと思うのだけれど、

年が明けてしまうというのは悲しいことだね。

年末の街に漂うそわそわした感じが好きで、別れ際に「良いお年を」なんて柄になく言ってみたり、仕事終わりに顔に浴びた冬の風は、冷たいにも関わらず柔らかだったり。大晦日は退屈な風景そのまま、素面のままで世界を終えてくれるような気にもさせてくれた。

お酒を呑んだりお菓子を食べたりテレビを見たり(バイトの休憩中にカップ焼そばで年越しそばだなとふざけてみたり)しているうちに、ハッピーニューイヤーと言わされている。あんなに愛していた年末がもうタイムカード押して帰宅してしまう。一緒にふざけあっていたのに。買ってきたお菓子はまだ余っているのに。

1人で食べきれとでも言うのか。

 

 ハッピーニューイヤーとまた言わされている

なにも幸福ではないのに、

あのまま始まらなくてもよかったのに

終わりだけが 、いつも、綺麗に、みえる

 

年が明けてしまうというのは悲しいことだね

悲しいことは悪いことではないのだけれどね

 

僕は今年の年末にも同じように、年末と一緒にふざけあえるだろうか。ふざけあえたらいいな。でも、会えない時間が長すぎるよ。

すると愛しの年末くんはこう話し始める。

 

ひとは 会っている時間よりも会っていない時間に思いの多くを喋りかける。声にはならない声で。そのくせ、会ったら会ったで話すことが思いつかない。愛想笑いを繰り返したり、つまらない冗談ばかりを話している。会える時間はもうそんなに長くもないのに。別れ際だけはいつも寂しそうな顔して。見えない僕はいつも側にいるから。また一年共に喋りあいながら。

また会える日まで。おやすみ。

 

年末はいつの間にか正月になっていた。

正月はいつの間にか平日になっていた。

月灯はいつの間にか朝日になっていた。

僕はいつの間にか 眠ってしまっていた。

 

 

ひとは

会っている時間よりも

会っていない時間に
思いの多くを喋りかける
声にはならない声で

 

「この話覚えてる?元気にしてますか?美味しいご飯食べてますか?最近、どんな音楽聞いた?好きそうな本があるから読んでみてほしい。あと教えてほしいことがあるんだ。僕のしていることは間違っていないだろうか?」

 

今、冷たい扉を開けたあなた

白い呼吸はあなたを傷つけながらも

あなたを守り続ける。

どうかお気をつけて

いってらしゃい。

 

(声にはならない声がいつも僕を抱きしめる)