戦場の古本屋、脱走兵の店主

今日もまた、

路地むこうの迫撃砲の音で目がさめた。

 

  隣の元産婦人科の解体工事がこの数か月にわたり続いている。朝八時から夕方五時まで、平日の毎日。文章にするとあっさりだが、実際に体験してみてほしい。ショベルカーの無限軌道は戦車の音のようであり、コンクリを砕く音は迫撃砲ごとき激しさがある。路地のむこうはさながら戦場だ。

 

ここ、広島県尾道市に古本屋としてお店をオープンして、この四月で二年経ってしまった。しまったというのは、他人事のような言い方で恐縮だが、実感がないのが本音でもある。昼間は市内のゲストハウス(ドミトリータイプの簡易宿泊所)スタッフとして働き、仕事をあがるのが二二時半。古本屋をオープンするのは、二三時から二七時(午前三時)。つまり古本屋がオープンするのは深夜の四時間だけだ。我ながらこんな暮らしがよくもまぁ続いてきたとつくづく思う。それもひとえに「世にも珍しい深夜の古本屋」としていくつかのメディアにとりあげていただいたことや、奇特なお店を支持し応援してくださるお客様たちのお蔭だと思っている。

 

   深夜の古本屋のお客さんはさまざまである。ひとりひとりに短編小説のような味わい深さがある。

 

例えばこんな夜があった。

酔っ払いスーツのおじさんたち。元医院だった店内を見渡し、ひとこと

「へんなクスリ売っとるんじゃないん?」

すかさず僕も

「本が一番のドラッグですよ」

苦笑いともとれる感嘆の声。

本は読みようによっては劇薬だ。僕も後遺症に悩まされている。今のところは本を読み続けるという対症療法しかないようだ。

 

  佐賀からの女性ひとり旅。前にも一度訪れたことがある方で、本の趣味がいい印象。

「今日はあの詩を買いにきました」

あの詩とは以前来店したときに見せたモダニズム詩人、北園克衛の詩作品「PINK LETTER」のこと。限定240部の貴重なもので、お店を始める前に店に箔をつける思いで入荷したものだった。決して安い値段ではない。

「どうしても忘れられなくて….」

一枚の微かなインクの染みを求めて、400キロもの道のりを超えて訪ねてきてくれた。古本屋としてこれほど嬉しいことはない。

 

「私はいつもあなたから幸福を買ったり盗んだりしています」

これは北園克衛の詩の一部。本の万引きは聞いたことはあったが、幸福の万引きは犯罪だろうか?

 

  夜な夜な、古本屋を開け続ける。頁をめくると、いつのまにか朝になっている。日が高くなると、またいつもの迫撃砲の音だ。ここが戦場の古本屋だとすれば、僕は脱走兵だろう。社会から逃げ続けていたら、気付けば真夜中に古本屋を開けていた。

 

戦場の古本屋、脱走兵の店主。

戦地に銃を捨ててしまった僕は、

代わりにはたきをもって

古本につもる埃と戦っている。

 

 

 

*この文章は、「龍谷大学国文会会報 」第二十五号(2018年 7月31日発行)に寄稿したものになります。改行などはブログとして読みやすいよう変更しました。

龍谷大学文学部日本語日本文学科は僕の出身校でもあります。お声がけいただいた国文学会会報編集部の皆さま、そして越前谷先生。誠に有難うございます。今度も精進して参ります。

 

 

 

古本潜水

 

夜、僕は扉を開ける

夜、僕は窓を開ける

電気をつける  ラジオの周波数をなでる

 

本たちは今日も棚のなかで眠っている

にもかかわらず僕は起こしてしまうのだ

彼らが子なら、僕は布団をはぐ親だろうか

可愛い本には旅をさせろ、と言ったりか

 

23時開店。

「夜」という海に

今日も一隻の古本屋が浮上した。

 

ひとりの旅人がきた、ひとりの少女がいた、

酔っ払いの哲学者がいた、公務員がいた、

無職がいた、労働者がいた、日焼けの男がいた

無数の恋人たちと、求婚者と求道者がいた、

 

ひとりとひとりがいて、

ふたりがひとつになり、

さんにんに変わっていく。

 

昔の自分がいて、本屋がいた。

夏が去り、秋が微笑み、

冬眠り、春が目を覚ます。

 

いつのまにか

手渡したものよりも

託されたものが増えていた

 

 

言葉を交わしてでしか見つからないものがある

(言葉を交わしながら隠した時間もあった)

言葉を交わさず見つかるものもある

(言葉を閉じ込めながら触れた視線も)

 

時々、人は本に見つめられているのだ

本に読まれているのかもしれない

ぼくたちの生活も一冊の本だとすれば

古本屋は何円で買い取るのだろう?

 

と、僕は今日も言葉を泳ぎながら

月をかじり、夜をめくっている

 

 

27時閉店。

「朝」という海へ

今日も一隻の古本屋が沈みゆく

 

夜をやり過ごす時間

深夜。

この街を脱走したくなりませんか?

目的地はどこでもいいんですが、

例えばファミリーレストランでいいんですが、何からの脱走か分からないんですが、

まぁまぁ仲のいい友達を途中で誘ってですね。互いに本とか持っていったりして(もちろん読みかけの漫画でもいいんですよ。僕はめぞん一刻です)

車の中ではラジオが流れているような。

天気概況が流れているような(明日も暑いらしいねぇ〜だりいねぇ〜とかコメントもありつつ)

 

会話もまぁ、そこそこに。

お腹空いてる?まぁそこそこに。

あ、コンビニ寄っていい?とか聞かれたりとか

そういう、時間。

 

脱走だなんて言っても、隣の市ですし

ファミリーレストランに行っても、きっと話すことないですし、

きっと救われないだらうし、

救われたいのかもわかりません。

 

ただ、ちょっとこの時間をやり過ごすのに、

窓から見える風景を変えたかっただけです。

ただ、ちょっと自分の中で喋る声が大きすぎるから、誰かの喋り声が聞きたかっただけです。

ただ、夜、今起きているのがひとりではないことを知りたかっただけです。

 

と言ってみたけれど、どれも違うかもしれません。

 

夜をやり過ごす時間

僕は、そんな古本屋になりたいな。

 

という曖昧な答えのようなもので締めてみる。

 

 

ここまで書いて、

今夜も僕は夜に古本屋を開けています。

 

栞と文庫

栞ほどの悲しみを

文庫本ほどの幸福に

挟みながら暮らす

 

幸福を読み始めるごとに

悲しみを抜き取る

その栞をなくしてまうと、

どこまで読んだか分からなくる

残りの幸福の時間を時々見失う

 

幸せはいつもポケットに入っている

君と半分にする予定の饅頭や

帰りがけに渡すべく用意した便箋

夕焼けをアテに吸うための青い煙草

日常を愛するための、ひとつの詩集

 

幸せは手で掴める大きさが心地よい

そして、

そこに悲しみを忍ばせておくがいい

 

甘さに含まれた苦味があった

見えない文字で書かれた言葉があった

明日昇らないことを祈った夕日があった

愛せない者たちの声が耳元に響いていた

 

乾いた風が吹くたびに

私は何かを掴んでは、何かを離してしまった

 

「現在」と書かれた頁を見失わないために

私は「悲しみ」という栞のありかを、

また探している。

 

 

 

断水中の営業時に思ったこと

 

暇は余すときに余しておく

金は使えるときに使っておく

酒は飲めるときに呑んでおく

 

時間に無駄遣いという瞬間はないのだから

 

 

本は読まなくてもいい

読まれなくたっていい

そう読まなくてもいいし

また、読んでもいい。

 

本はそうあってほしい。

ただ、そこにあるということ。

それが、どれだけの強さで脆さかと

誰かのためというよりは

あのときに救われた

(またいつか救われる)

自分のためだ

日常を続けようと

人は言葉を続ける

 

 

本は閉じられた時間と

開かれた部屋だ。

あなたはいつでも

そこに帰ることができる

 

(断水中の営業日に思ったこと)

 

水を飲む

ひとりの男が立っていた

畑の畦道の上で

車が通るたびに白い煙がまう道で

向こうの山は低くも高く

さらにその上はいつもながらの青だ

いつもながらの青だのに

いつもながらの光があるのに

その下にいる僕らは光沢を反射しない

先ほどまで艶やかであった暮らしの品々は

泥にまみれ、水に濡れ、壊され、

何かを産むためにあった手たちは

スコップを握り、

泥にまみれ、汗に濡れ、捨てるために使われた

 

男は水を飲む、塩を舐める、西瓜を食らう

 

生きるためにというよりは、

死ななかったためであろうか

あるいは、声に時間を与えるかのように

水を飲んでいる。 

 

 

さようならの響きで(弐周年の挨拶に代えて)

「お久しぶりです。お元気ですか?」

と、僕が呼びかけている相手は誰だろう。誰に向けて毎日、僕たちは声を発するのだろう。

きっと僕たちは毎日会っているのに。会話も声も顔も合わせていないのだけれど会っている、のに。電車の中で自分を含めた乗客が全員スマートフォンを触っていることに気づいて、その光景の異常さに気づいてしまう。そっとポケットにしまう、前を向く。窓の向こうは、街。自分が今を見過ごしている、街。僕は、黒田三郎の詩を思い出そうとしてみる。ポケットにある誰かの声の影を感じながら。

 

 

 四月二十日をもちまして、無事古本屋弐拾dBをオープンして2周年、いや弐周年を迎えることができました。月並みな言葉にはなってしまいますが、ひとえにお客さま、取り引きのある出版社さま作家さま、多くの支えてくださっている方たち、皆さまのお陰です。

本当に今さらながらにはなってしまいますが、ありがとうございます(この文章の下書きはすでに春の段階にあったのですが、書けないまま季節は夏になってしまいました)

 

なんとか嘘みたいなお店が生き残ることができました。「10年はお店を続ける」という根拠のない微かな目標をもっていながらの2年という月日は思いのほか、僕にとって長いものでした。「あれ、まだそんなもんだったかしら」といった感じです。それも日々訪れるお客さん達が個性豊かな方が多く、決して一日、一晩、一年という単位では推し量ることのできない、1頁とも呼ぶべき物語的な時間の経過のお陰かもしれません。

 「BAR レモンハート」という古谷三敏の酒場うんちく人情漫画が、実家の父親の棚に並んでいるのですが、それを高校生のときに勝手に拝借、よく読んでいたことを最近ふと思い出しました。

都会の港街の外れのようなエリアの一角にポツンと現れる行灯看板。扉を開けると、静かめのBGMでラジオが流れていたりレコードだったり。カウンターのいつもの席には季節外れのコート。ちびりちびり飲む常連客風の眼鏡の男。もうひとりはスーツ姿。人懐こい髭を生やしたひょうきんな男でウーロンハイなんぞを呑んでいる。そうしてお酒ならなんでもあるといった酒瓶の数と、それを背にして立つ人優しそうなマスター。

毎晩、繰り広げられるマスターと常連客のメガネさん、松っちゃんとのほのぼのとしたやり取りを読みながら「こんな、ちょっと惚けた感じのお店が深夜の街角にあったら面白そうだなぁ」と子供ながらに感じていました。今現在の僕は、お酒を出すようなお店ではないですが、個人的にはそんな雰囲気が好きで、深夜の古本屋として近しいものになれたらそれはそれでよいな、と。この頃は思っています。(もっぱらお店ではお客さんよりも僕のほうがよく呑んでしまっているかもしれません。呆れた店主と言われればそれまで)

 

書きたいことが山ほど溜まってはいるのですが、砂山が高くなればなるほど崩れやすくなるが如く。思いついてはだらだらと思考が崩れていく日々。だから今日はこれまで。

こうしてまた、一から平になってしまった砂(言葉)を固めていく作業を地道に続けていこうと思います。その作業は僕にとって、本を売ることを選んだ身として、そもそも本とは、本屋とはなんなのかを考える時間でもあるのかもしれません。

 

 

 

 

「少女よ
  そのとき
  あなたがささやいたのだ
  失うものを
  私があなたに差し上げると」

黒田三郎「もはやそれ以上」より