深夜3時、異常なし

 

「今夜もオープンしました。23:00-27:00.」

 

おそらく昨日もオープンしました。

たぶん明日もオープンするでしょう。

繰り返し繰り返した行いを

続けていくこと。

お店とはと考えることも

一時放棄して。

 

 

あの本を書いた人はもう死んだ人

あの本を買った人はまだ生きてる人

まだ生きているとは、本が読めること、本を買えること、本を贈れること。

そして、あなたはあなたの生活を綴れるということ。

 

 

「深夜の本屋が夢だったんです」

東京からきたあの人、野良猫と一緒にやってきた人。その一言で僕は救われたんだ。

 

「ええなぁ、あんたは女の子見ながら金が貰えて」

足の悪いおじいさんが200円握りしめて深夜に。そんな彼のジョークに僕は笑ったんだ。

 

「がんばってくださいよ」

いつも応援してくれている近所のお坊さん。

その夜は赤ら顔。本を沢山帳場にもってきての一言。彼の言葉を理由に僕はお店を続けれている。

 

就活スーツの女の子。面接帰りだろうか。過去の自分と重ね合わせてしまい、多めに声をかけてしまった。大人たちはどうして現実を怖くしてしまう。僕たちはささやかな幸福を抱きしめたいだけなのに。

 

若い地元の新聞記者。ちょうど彼に合うと思った本が入荷していた。ニコンの本、彼の愛機はニコン。「これはいいですね。こんな写真はデジカメでは撮れない」

その一言に僕も生かされて。

 

「よく2人で弐拾dBの話をするんです」

京都からの髭のお兄さん。昔彼女さんときましたよね。たしかレコードの話や、京都の話をしましたよね。誰かの声の中で一瞬でも生きれたことを、僕は。

 

夜に隠した言葉、朝になる前に見つけた答え、

ただラジオの音楽に耳を傾けた時間

 

声のない、声。

ここにいない、あなたの。

ここにいたあなたの。

いつも、そこにいるあなたの。

 

 

我儘で傲慢な高飛車な思いだけれど、

この人の、あの人の声を守りたいと思ってしまうのだ。一瞬だけでいいから。

そのためにも、僕は僕の生活を守らないといけないのだ。

 

 

歴史の最前線で、未来の最後尾で、

脱走兵の僕は誰も殺さないための銃を握る。

 

 

夢の中で初雪をみた。

夢の中で初雪をみた。

外の路地に薄っすらと雪が積もり、空を見上げると白いのが絶えず降っていた。

今朝もよく冷えたからだろうか。シェアハウスの同居人が毛布をかぶせてくれていた。薄いブランケットに顔まで包まり、寒そうにしていたらしい。早く二階の自室へあがればよいものを、怠け者は棺桶をソファでこしらえる。

 

不思議な夢だった。でも綺麗な雪だった。

その日は(夢の中の、その日)は新開に呑みにでようしていた。なにやら、新しい立ち飲み屋ができたらしい。早足で路地をかけていくと、あったあった。赤提灯と、紺の暖簾。ガラス扉のむこうは蛍光灯の下でおでんの湯気。そうだよ、これだよ。僕が近所に欲しかった呑み屋はこれ。さっと呑めて、さっと酔えるお店。ちらりと覗くと地元の爺さんたちがひとりとふたり。昼間から赤ら顔の様子。今日はこのあと用事もあるし、さきに済ませてから、あとで来よう。

もと来た道を引き返し、シェアハウスに帰った。そこで場面は途切れて、というよりは忘れた。も一度、さぁ呑みに出ようと引戸を開けると路地に薄っすらと。見上げれば次々と。

後ろを振り返り同居人のバクト君に

 

「おい、雪だよ雪!積もってるよ」

 

自分でもびっくりするくらいのはしゃいだ声がでた。え、ほんとにぃと返事を聞いて、路地に出ようとしたら、目が覚めた。

 

本物のバクト君は、台所に立って洗い物をしている。本物の僕はソファに沈んでいた。

「雪を見たよ。夢の中で。初雪だよ」

よく覚えてるねぇと鼻で笑われながら、僕はも一度毛布の中へ。恋しいというか、惜しいというか。ここで惜しいのは雪か、はたまた酒か。「どちらとも」というのが本音か。

 

雪見酒の季節まではまだ遠い、

秋のとある朝の話。

頭にはフケが積もっている。

 

孤独を飼いならして、時々可愛がる

雑誌CREA11月号にて、選書の機会を頂いた。

名だたる日本全国の本屋の店主さんもとい、書店員さんの名前のなかに自分の名前があるのは、身分不相応とも思いながらも有難い限りだと思う。

 

 お店をされている方には、雑誌の取材やテレビ取材などメディア露出を好まない方も少なくないけども(逆にメディアに出ることにのみに心血を注ぐ人もいる)僕はお声がかかればなるべく出させていただくようにしている。何がきっかけでお店を知ってくださるかは分からない。少しでもお店のことを知っていただいて、未来の常連さんに出会う確率が増えるのであれば、自分自身をネタにしてでも世間に顔を晒す手はない。僕自身、雑誌の特集記事やテレビ放送で知ったお店も沢山あった。もちろん取材してくださる方々も同じ人間であるのだし、大切なお客さんのひとりなのだから、あまり無下に断りたくない。

 

CREAの掲載では「本の処方箋」ということで、雑誌読者の悩みに書店員が本の選書で答えるといった趣旨の頁。(おそらく、僕のお店が元医院であることや薬袋モチーフの書皮を本に巻いていることから今回お声がかかったのだと思う。店主の力量よりも元の物件としての磁場にいつも救われている)

 

ちらりさらりと、読んで頂いた方にはご存知の通り、質問は30歳を越した独身女性の孤独に向き合うものだった。仕事も充実していて、結婚したい訳でもないが、どこか心にふと訪れる不安にお勧めの一冊を。

さて、まだ25歳でまともに会社に勤めたこともなく、結婚もできそうのない青二才が何をお勧めしたらよいのか。その人の声や顔、服や好きな音楽に本も知らないのに本を紹介するというのは暴力的な気もする。無責任だとも。

同時に、人は他者の無責任に救われることもあると僕は思う。何気ない酔っ払いじいさんの一言を金言として受け取ることだって僕たちにはできる。むしろ相談話に対して生真面目に反応されてしまうと気恥ずかしくなる。適度に流しつつ、気の利いた一発の台詞が欲しかったり。僕はそうだった。無責任に人は救われる。

 

僕が何の本を選んだかさておき、

孤独について。

 

孤独といったって、僕たちはその言葉の本来の意味を理解できていない。たぶん、今までもこれからも。孤独のなんたるかも知らずに、なんとなく使ってしまう。孤独。実はその孤独とやらは、美味しいものをたらふく食べたり、愛しい人とのひとときを過ごすことによって薄くすることができる。し、実は孤独を手放したいとも思っていない。孤独感が綺麗さっぱりなくなれば、今度は乞い求める。その繰り返し。

 

僕たちが普段飼いならしてる孤独は、荒野のただ中にあるものというよりは、コンビニなどで売られているものに近い(スーパーマーケットよりも少し割高な)

時々買い足して、消費して、使い捨てる。

心が空いたらまた買い足して、消費して、使い捨てる、孤独。

 

そんな孤独に対して、本にできることは何か。

それは自分の感情に少しの輪郭を与えることではないのだろうか。頁に書かれた言葉を噛みながら、徐々に吞み下す。体に取りこまれた言葉は形にならない感情に輪郭を与え、触れることのできるものにする。本には無数の言葉によってできた多重の輪郭がある。その輪郭の一片をしばしお借りする。

 

僕は孤独を捨てたりしないで、飼いならす。

小さく撫でて、可愛がる。

時々噛まれた先から血が流れても、

私たちは悲しく笑う。

 

閉じられた時間と開かれた部屋

今夜も深夜に古本屋を開けている。

なるべく、毎日開けていていたい。のは、お客さんのためにというと偽善的すぎる。どちらかというと、やはり自分のためだ。店を閉めていたのでは本は一向に売れていかないのだし、つまりそれはお金が僕の懐に入ってこないということを意味し、お金が懐にないということは明日呑むためのお酒が無いことに結実する。定食屋の美味しいカレーも食べたいし、たまの休みには遠出をして暖かい温泉にも入りたい。

日がな暮らしを楽しむためには、それなりに本を売っていかなくてはいけない。ここは僕の図書館ではない。

 

無恥ながらに無知ではあるけれども、

ここは古本屋であり、本屋だ。

 

けれど、店を開けることが、開け続けることが自分のためなのはもう一つ別の理由があるのも感じている。

23時に看板に電気をつけて、扉を開ける。

寒い日も暑い日も。風の日も雨の日も。豪雨の日も断水の日も。すると、ひとりふたりと店にはお客さんが訪れる。しばらくすると、帳場に一冊二冊と本を持ったお客さんが帰ってくる。

電卓を打つ。お金を頂く。本を渡す。一言二言世間話をする。ありがとうございます、おやすみなさいを言い合う。

こんなささやかなことが、お店として当たり前で自然なことが僕はやはり心底ありがたいのだ。

 

生活の一部でも、旅の途中でも、

さまざまな事情や都合、言い訳と嘘と、不幸と幸福があるなかで、この場所を、この古本屋を選んでくれたこと。嬉しくないはずはない。

 

本という「商材」を扱いながら、つくづくこの本とやらは不思議な物体だと思わされる。

お客さんが様々なら、本もさまざま。

繰り返し読まれ完全にへたった文庫本もあれば、まったく開かれることもなく新品にも近い文学全集の類もある。いかがわしい裸体を写した写真集があるかと思ったら、おそらくこの先一生行くことがないであろう異国の路地を写した写真集もある。何十巻も続いた漫画がある横には一巻で打ち切りになったキャラクターが笑っている。初々しいカップルが愛しあっているラブストーリーの部屋の横では、男と女が痴話喧嘩を繰り広げている部屋があったりもする。

早く死んだ本もいれば、長生きした本もいる。

人間もしかりか。

 

僕は度々に自分の店を一冊の本のように捉えて見てしまう癖がある。頁を(扉を)開けば、今日も一行ずつつに物語は続いていく。が、この本を書いているのは店主である僕ではない。どちらかといえばお客さんと、やはり本。その時間がこの物語を紡いでいるのかもしれない。僕は登場人物のひとりか、語り部のひとりに過ぎない。そんな「弐拾dB」という一冊の本をアマゾンよりも大きな「世界」という本屋から選んでくれたことは、語り部としても嬉しいことこの上ない。

 

 

本は閉じられた時間と開かれた部屋だ。

あなたはいつでもそこに帰ることができる。

その時までいつも本棚で待っている。

 

もちろん、「本」に本屋というルビを振って読んでいただいてかまわない。

 

 

戦場の古本屋、脱走兵の店主

今日もまた、

路地むこうの迫撃砲の音で目がさめた。

 

  隣の元産婦人科の解体工事がこの数か月にわたり続いている。朝八時から夕方五時まで、平日の毎日。文章にするとあっさりだが、実際に体験してみてほしい。ショベルカーの無限軌道は戦車の音のようであり、コンクリを砕く音は迫撃砲ごとき激しさがある。路地のむこうはさながら戦場だ。

 

ここ、広島県尾道市に古本屋としてお店をオープンして、この四月で二年経ってしまった。しまったというのは、他人事のような言い方で恐縮だが、実感がないのが本音でもある。昼間は市内のゲストハウス(ドミトリータイプの簡易宿泊所)スタッフとして働き、仕事をあがるのが二二時半。古本屋をオープンするのは、二三時から二七時(午前三時)。つまり古本屋がオープンするのは深夜の四時間だけだ。我ながらこんな暮らしがよくもまぁ続いてきたとつくづく思う。それもひとえに「世にも珍しい深夜の古本屋」としていくつかのメディアにとりあげていただいたことや、奇特なお店を支持し応援してくださるお客様たちのお蔭だと思っている。

 

   深夜の古本屋のお客さんはさまざまである。ひとりひとりに短編小説のような味わい深さがある。

 

例えばこんな夜があった。

酔っ払いスーツのおじさんたち。元医院だった店内を見渡し、ひとこと

「へんなクスリ売っとるんじゃないん?」

すかさず僕も

「本が一番のドラッグですよ」

苦笑いともとれる感嘆の声。

本は読みようによっては劇薬だ。僕も後遺症に悩まされている。今のところは本を読み続けるという対症療法しかないようだ。

 

  佐賀からの女性ひとり旅。前にも一度訪れたことがある方で、本の趣味がいい印象。

「今日はあの詩を買いにきました」

あの詩とは以前来店したときに見せたモダニズム詩人、北園克衛の詩作品「PINK LETTER」のこと。限定240部の貴重なもので、お店を始める前に店に箔をつける思いで入荷したものだった。決して安い値段ではない。

「どうしても忘れられなくて….」

一枚の微かなインクの染みを求めて、400キロもの道のりを超えて訪ねてきてくれた。古本屋としてこれほど嬉しいことはない。

 

「私はいつもあなたから幸福を買ったり盗んだりしています」

これは北園克衛の詩の一部。本の万引きは聞いたことはあったが、幸福の万引きは犯罪だろうか?

 

  夜な夜な、古本屋を開け続ける。頁をめくると、いつのまにか朝になっている。日が高くなると、またいつもの迫撃砲の音だ。ここが戦場の古本屋だとすれば、僕は脱走兵だろう。社会から逃げ続けていたら、気付けば真夜中に古本屋を開けていた。

 

戦場の古本屋、脱走兵の店主。

戦地に銃を捨ててしまった僕は、

代わりにはたきをもって

古本につもる埃と戦っている。

 

 

 

*この文章は、「龍谷大学国文会会報 」第二十五号(2018年 7月31日発行)に寄稿したものになります。改行などはブログとして読みやすいよう変更しました。

龍谷大学文学部日本語日本文学科は僕の出身校でもあります。お声がけいただいた国文学会会報編集部の皆さま、そして越前谷先生。誠に有難うございます。今度も精進して参ります。

 

 

 

古本潜水

 

夜、僕は扉を開ける

夜、僕は窓を開ける

電気をつける  ラジオの周波数をなでる

 

本たちは今日も棚のなかで眠っている

にもかかわらず僕は起こしてしまうのだ

彼らが子なら、僕は布団をはぐ親だろうか

可愛い本には旅をさせろ、と言ったりか

 

23時開店。

「夜」という海に

今日も一隻の古本屋が浮上した。

 

ひとりの旅人がきた、ひとりの少女がいた、

酔っ払いの哲学者がいた、公務員がいた、

無職がいた、労働者がいた、日焼けの男がいた

無数の恋人たちと、求婚者と求道者がいた、

 

ひとりとひとりがいて、

ふたりがひとつになり、

さんにんに変わっていく。

 

昔の自分がいて、本屋がいた。

夏が去り、秋が微笑み、

冬眠り、春が目を覚ます。

 

いつのまにか

手渡したものよりも

託されたものが増えていた

 

 

言葉を交わしてでしか見つからないものがある

(言葉を交わしながら隠した時間もあった)

言葉を交わさず見つかるものもある

(言葉を閉じ込めながら触れた視線も)

 

時々、人は本に見つめられているのだ

本に読まれているのかもしれない

ぼくたちの生活も一冊の本だとすれば

古本屋は何円で買い取るのだろう?

 

と、僕は今日も言葉を泳ぎながら

月をかじり、夜をめくっている

 

 

27時閉店。

「朝」という海へ

今日も一隻の古本屋が沈みゆく

 

夜をやり過ごす時間

深夜。

この街を脱走したくなりませんか?

目的地はどこでもいいんですが、

例えばファミリーレストランでいいんですが、何からの脱走か分からないんですが、

まぁまぁ仲のいい友達を途中で誘ってですね。互いに本とか持っていったりして(もちろん読みかけの漫画でもいいんですよ。僕はめぞん一刻です)

車の中ではラジオが流れているような。

天気概況が流れているような(明日も暑いらしいねぇ〜だりいねぇ〜とかコメントもありつつ)

 

会話もまぁ、そこそこに。

お腹空いてる?まぁそこそこに。

あ、コンビニ寄っていい?とか聞かれたりとか

そういう、時間。

 

脱走だなんて言っても、隣の市ですし

ファミリーレストランに行っても、きっと話すことないですし、

きっと救われないだらうし、

救われたいのかもわかりません。

 

ただ、ちょっとこの時間をやり過ごすのに、

窓から見える風景を変えたかっただけです。

ただ、ちょっと自分の中で喋る声が大きすぎるから、誰かの喋り声が聞きたかっただけです。

ただ、夜、今起きているのがひとりではないことを知りたかっただけです。

 

と言ってみたけれど、どれも違うかもしれません。

 

夜をやり過ごす時間

僕は、そんな古本屋になりたいな。

 

という曖昧な答えのようなもので締めてみる。

 

 

ここまで書いて、

今夜も僕は夜に古本屋を開けています。