閉じられた時間と開かれた部屋

今夜も深夜に古本屋を開けている。

なるべく、毎日開けていていたい。のは、お客さんのためにというと偽善的すぎる。どちらかというと、やはり自分のためだ。店を閉めていたのでは本は一向に売れていかないのだし、つまりそれはお金が僕の懐に入ってこないということを意味し、お金が懐にないということは明日呑むためのお酒が無いことに結実する。定食屋の美味しいカレーも食べたいし、たまの休みには遠出をして暖かい温泉にも入りたい。

日がな暮らしを楽しむためには、それなりに本を売っていかなくてはいけない。ここは僕の図書館ではない。

 

無恥ながらに無知ではあるけれども、

ここは古本屋であり、本屋だ。

 

けれど、店を開けることが、開け続けることが自分のためなのはもう一つ別の理由があるのも感じている。

23時に看板に電気をつけて、扉を開ける。

寒い日も暑い日も。風の日も雨の日も。豪雨の日も断水の日も。すると、ひとりふたりと店にはお客さんが訪れる。しばらくすると、帳場に一冊二冊と本を持ったお客さんが帰ってくる。

電卓を打つ。お金を頂く。本を渡す。一言二言世間話をする。ありがとうございます、おやすみなさいを言い合う。

こんなささやかなことが、お店として当たり前で自然なことが僕はやはり心底ありがたいのだ。

 

生活の一部でも、旅の途中でも、

さまざまな事情や都合、言い訳と嘘と、不幸と幸福があるなかで、この場所を、この古本屋を選んでくれたこと。嬉しくないはずはない。

 

本という「商材」を扱いながら、つくづくこの本とやらは不思議な物体だと思わされる。

お客さんが様々なら、本もさまざま。

繰り返し読まれ完全にへたった文庫本もあれば、まったく開かれることもなく新品にも近い文学全集の類もある。いかがわしい裸体を写した写真集があるかと思ったら、おそらくこの先一生行くことがないであろう異国の路地を写した写真集もある。何十巻も続いた漫画がある横には一巻で打ち切りになったキャラクターが笑っている。初々しいカップルが愛しあっているラブストーリーの部屋の横では、男と女が痴話喧嘩を繰り広げている部屋があったりもする。

早く死んだ本もいれば、長生きした本もいる。

人間もしかりか。

 

僕は度々に自分の店を一冊の本のように捉えて見てしまう癖がある。頁を(扉を)開けば、今日も一行ずつつに物語は続いていく。が、この本を書いているのは店主である僕ではない。どちらかといえばお客さんと、やはり本。その時間がこの物語を紡いでいるのかもしれない。僕は登場人物のひとりか、語り部のひとりに過ぎない。そんな「弐拾dB」という一冊の本をアマゾンよりも大きな「世界」という本屋から選んでくれたことは、語り部としても嬉しいことこの上ない。

 

 

本は閉じられた時間と開かれた部屋だ。

あなたはいつでもそこに帰ることができる。

その時までいつも本棚で待っている。

 

もちろん、「本」に本屋というルビを振って読んでいただいてかまわない。