口を噤んでしまったときの声。

「この予想は外れてほしいのだが、この先、たぶん日本は貧乏になると思われる。豊かになると、貧乏生活のためのインフラや文化が失われる。復興といっても、今まで通りの生活レベルに戻すだけでなく、貧乏でも楽しく生きていく道も考えていきたい。それが今わたしにできること」荻原魚雷「これからどうなる」-「書生の処世」収録。

 

これは、僕が敬愛してやまない「たゆたえども沈まない作家」荻原魚雷さん、2011年の文章。

今から8年前の文章ということを思うと、なんとも言えない。外れてほしい予想は、見事に的中してしまっている感がある。

 

この国は果たして豊かになったのか?

仮に豊かになったのだとしたら、その豊かさとは何か?おそらく僕が常日頃思う豊かさとは、少し違う気がしているのだけれど、君はどうか?

 

今日は参議院選挙の投票日。

この季節になると、選挙にまつわる言説がSNSに飛び交う、色めく、はためく。

あまり正直すぎる文章を書くのは時々ためらわれるのだけれど、どうもあの雰囲気は好きにはなれない。「選挙にいきましょう」「選挙は権利だ」「選挙にいかない奴は馬鹿だ」と様々な言葉を目にすると、天邪鬼の僕は逆に選挙に行きたくなくなりもする。そういう人は少ないと思うのだけれど、君はどうか?

 

小さな声を政治に反映させましょう。と彼は言う。けれど、その声自体がより小さな声を排除してしまっている可能性はないか。

あなた個人の声が、ある程度の形をもったグループの声になったとき、あなたの小さな声は誰かの大きな声になってはいまいか。

その時、一歩引いてしまった人々の声は無かったことにはなるまいか。

僕は時々思ってしまう。

 

 

とある常連さんが、フェイスブックの投稿で

「僕は選挙に行かない人も尊重される社会であってほしいと思います」

と書かれていたことに、その風通しの良さに救われる思いもした。

 

少し話がそれる。

こんな、ままごとのような古本屋を開けていても様々な本がやってくる。堅い思想書もあれば、文学も、絵本もエロもある。政治にまつわる本もチラホラとある(だいぶ偏りがあるけれど)時代もばらばらだ。

そんな本たちを眺めながら、ふと思う。

政治にまつわる本だけが、果たして政治的であろうか。それは違う。多かれ少なれ、ここに並ぶ本は全て政治とは切り離せない。その時代、その時代で書かれた(描かれた)ものたちは、同時代の音や、匂いや、色の中で生まれた。政治について書いていなくとも、意識していなくとも政治とやらにたどり着く道がある。それは自然なことだ。

 

だとすれば。だとすれば、その本たちに触れている時間もある意味では政治的であると思う。花を愛で、お菓子を食べ、好きな音楽を聴き、話題の映画も見ることも、ひとつの政治ではないのか。政治を語ることだけが政治ではない。

選挙に行こうと語ることだけが政治ではない。

今あるものを、今あなたが愛しているものを愛でていく時間もひとつの政治だと思う。

 

もうひとつ。

僕たちは政治を語ることを大きなことにしてはいまいか。時々立ち止まっていたい。語ることに熱中するあまり、目の前にいるひとやものやことを見失ってはいまいか。目の前で倒れている自転車があれば起こすこと。道で人会えば、おはようと挨拶すること。トイレットペーパーが切れたら交換すること。咲いている季節の花に目を向けること。そういったことに実は政治があるのではないか。大きなことでなくして、いつも通りにあってほしい。語ることも、手を握ることも、笑うことも。

 

あとひとつ。

僕が愛した詩人たちは、かつて戦争中多くの愛国賛美の詩を書いた。去年の8月入荷した「愛国詩集」という本には名だたる詩人の名前が並んでいる。

高村光太郎三好達治草野心平...。

あんな美しい詩を書いていた詩人たちが、こうも陳腐な詩を書いてしまうのかと悲しくもなり、やるせなくもなった。

書かざるえなかった時代。と言えば、もちろんそれまでだけれど、だけれど、だけれどもどうして、という言葉が何度も浮かんでは、僕は、夏の深夜、泣いてしまった。

あの時代になってはいけない。世の中は分かりにくく変わっていく。分かりやすくは変わらず、徐々に分かりやすい言葉が自然と言えてしまう空気になるのだと思う。

だから、どうか、あなたの声を忘れないで。

 

 

 

誰かが口を噤んでしまったときの声を

僕は聞いていた。