ものがたり中毒(あるいは二日酔い)

 

月夜の晩、住宅街の公園。遊具も鉄棒なんかしかないような、寂しい、少し広い公園。

男と女がふたり並んで、藤の花が屋根になっているようなベンチに座っている。男と女がふたり並んで。ベンチに座っている。猫なんかが歩いていたりする。女は煙草を吸っている。男は...男はどこか所在なさげだ。月夜の晩。目の前の道路を単車が走り去る。それを合図にか、男は女から煙草をとりあげ口元へ彼の口をつけた。そのあと、男は彼女の煙草を不慣れながらにゆっくりと吸うのだ。何か言葉を待つようにゆっくりと、吸う。猫はいつのまにかどこかに消えていた。

その街には海はなかった。

 

 

日々を暮らすというよりかは、日々をやり過ごしているといった方が近い僕の生活。意識していないと単調な作業の繰り返しになる。

だから、僕はいつか読んだ見た聞いた物語を思い出して、気づけばひとり妄想の世界にふけこむ。もしくは、自分の身の回りに起こる出来事を、ひとつひとつ物語的に仕立て上げてしまう。その時、僕は一登場人物にすぎず、まるで台詞を読むかごとく、自然と次の言葉を喋っている。「僕も、秋が好きですよ」

 

いつまでも物語を続けていけば苦しくない。私の生活はつくり話。私の生活は、物語。嘘じゃなかった。だって、私の生活は物語のなかの本当だから。あの瞬間は本当だったの。

出来すぎてるよ、と言われて。

 

けど、あなただってそうでしょう?

あなたの暮らしの隅々まで、あなたが読んだ物語が染みこんでいて、あなたの言葉はどこからか借りたものだと思うのだけれど。どうして、自分の言葉だって言えるの。

どうして、あなたの怒りや悲しみが、自分のものだと言えるの。私の悲しみがあなたの悲しみかもしれなかったように、あなたの悲しみも誰かにとって代えられるものかもしれないのに。

 

ものがたり中毒。

そんな言葉を思いついて、僕はもしかしてそうなのかもしれないと、ふと。妄想話をお客さんに話してみては、苦笑いされる。そんな生活。

 昔、とある女性に「藤井くんは自分が空っぽだと思っているから、そうやって本や音楽や映画に影響を受けて暮らしているんだよね。自分が空っぽだとわかるのが怖いから」みたいなことを言われたことがある。(そういえば、あの駅の待合室はとても静かだった。寒かったけれど、どこか暖かった思い出がある。思い出も物語になってしまうのかしら)

 

こうして深夜に店を開けているのも、ものがたり中毒だからだろうか。時々、ぼんやり考える。

あるいは、そうやって自分に酔っているんでしょって言われたりなんかして。また、そうやって自分に酔って。なんて。

 お酒に酔わずに、自分に酔えるなんて、なんとお金のかからないことなんだろう。ほとんどただで酔えるなんて、なんと素敵なことだろう。ちなみに、自分の酔いすぎで二日酔いになった場合はどうやったら治るんだろう。何を飲めば、楽になるんだろう。

 

 

その街には海がなかった。

彼はその瞬間海が見たくなった。

たまらなく、潮の香りを嗅ぎたくなった。

けれど、彼の目の前には小さな砂場しかなかった。

 

「今日は半月だ」

男はぽつりと言葉を砂場に落とした。

「私が半分食べたの」

女の目には食べ残しの月が反射していた。

 

(これも、ひとつのつくり話)