古本屋で死ね

 

店を終えた日曜日の夜は、どこかに消えたくなるね。車に乗って。どこでもいいの、どこかに消えたくなるよ。そんなどこかはどこにもないんだけど。遠くにいけないよ。明日もあるからさ。雨が少しだけ降ってたけ。お腹が空いてただけなのかも。珈琲が飲みたくなったよ。あったかいやつ。煙草が吸えたらいいや。

 

「夜に開いてる喫茶店へでも行こうか。そんなのこの街にはないけどさ」

 

休みの日は何しているんですか?と聞かれて困ってしまった。休みの日がちゃんとあってもしたいことがないから。ちゃんと働いている訳でもないのにね。古本屋で死ね。と言い聞かせる。それ以外に生き延びる方法もなく。

 

「みんなは休みの日は何をするの?誰かを愛したりするの。あるいは、誰かを憎むのか。どちらもいない人はコンビニで何を買えばいい?」

 

例えば、卵かけご飯を食べる時に、卵が茶碗の外に落ちないように、いい感じにですね、くぼませたりするじゃないですか。例えば、パスタ茹でる時に、一緒に、レトルトソースを同じ鍋で茹でたりするじゃないですか。もっと言えば、洗濯機を回している時間に、部屋の掃除すませちゃおうとか思うじゃない。

そんな小さな些細な細々とした生活の工夫にひとり悲しくなって、誰もいない敵にひとり挑んで、呆然とすることはない?悲しくなって、その鍋ごとを全部捨てちまいたくなるよ。

もったいなくてできんけどね。

 

生きるために古本屋をしているのか、

古本屋をするために生きているのか。
時々わからなくなるよ。
死ね、死ねと、自分に言う心で死ねない手が髭を剃る。

 

「人を傷つける人が、傷つけられることには不寛容なのも不思議なことね」

 

その人が死んだら、いや死んでも気づかないでしょう。いつも通り、省みずに「ムカつく」だの言っていれば良いのですよ。あなたが殺したとしても。いいじゃないですか。ムカつくと言っていればよかったのだから。いいじゃないですか。誰もあなたの言葉に興味ないんだから。

不平不満も生活の糧、ですよ。その糧で食べるご飯も美味しいよ。きっと。

 

僕は気づけば、売った本のお金でご飯を食べている、お酒を飲んでいる、誰かに手紙を書いている。文字通り、本に生かされている。

本を売ることに深い意味を持たせたくはない。けれど、本を売ることにドライ乾燥になるほど乾くこともできない。ただ、本が好きだった。好きなだけ。好きになっちゃった。好きなものなら、いつまで売っていても買っていても嫌にならない。今まで見たこともない本にどきどきする。古本を買い取った時に、何人かのお客さんの顔が浮かぶ。いいでしょ、と言った詩集にいいですねぇ、と18歳の男の子がにやつく。よかった、届いた。と思う。会話なくとも、つけた価格でさらりとお客さんが買って帰る。それが、もう、たまらなく嬉しい。

その瞬間のたびに呼吸が続く。

 

古本屋で生きる。

古本屋で死ね。

他にできることもない。

他にしたいこともない。

頁をめくる音で息をしろ。

誰かが生きた時間で己を生かせ。

誰かが死なないために、古本屋で死ね。