一声一行、一日一頁。
どうしてなんで、古本屋を始めたのか。
それを僕はいくらでも話すことはできる。友人のとある一言で、本が好きだから、社会不適合者が社会に溶け込むひとつの方法としてetc.
けれど、その言葉を語れば語るほど僕は空洞になる。からっぽになる。多く語ることごとに、色が、音が、漂う空気が薄くなる。言葉にすればするほど、始めたときの時間が整頓され綺麗で分かりやすい物語になっていく。(ブログに溢れる自信に満ちた文章におびえてしまう)むしろ、日々のくだらなさに無根拠な意味を見出し、遊びふざけていたくもなる。
逃げているのだから仕様がない。
何から?
という、その質問からも逃げたい。
僕は何度も、この文章を書いては消し、書いては消しを繰り返している。
書けば書くほどに、自分がこんなことを考えていたのか疑わしくなる。かっこつけようというジェスチャーが見え隠れしては消す。
仕様がないね。照れ笑い。逃げてるから、ねと。
僕は諦めた。自信のなさに自信がある。今日から少しずつ書いてみようと思う。
どうしてなんで古本屋を始めたのか。
その質問については今まで何度も答えたけれど、自分自身の答えにあまり意味はない。
お店を始めた時からこの古本屋は僕だけのものでなく、お客さんとの共有物だと思っている。
その共有物である自分のお店を僕は一冊の本のように見立てて過ごしている。
お客さんが漏らしたあくびや、僕のいらっしゃいませも。本棚に本を戻すときの音も、時計、深夜ラジオも、それを聞いてた時間も、外を走る貨物列車も、店まで来られる道中も、お客さんとの(あなたとの)会話も、買ってくださった本たちも。
一声一秒ずつが、本の一行のように。
お店で過ごした一日が、本の一頁のように。
だから、今、あなたが見ているものが本の一部なんだよという気持ちで、僕は今あなたと一緒に物語を作っている気でいます。古本屋という一冊の本の完成に向けて、共に声を重ね、耳を澄ませながら一行ずつ作れていけれたらと図々しくも願っています。
あとがきは僕には書けないかもしれないので、
どうか、読者に(あなたに)書いて欲しい。
そんな妄想をしながら。