古本屋的な、余りに古本屋的な
去年に書いた下書きがあったので、最後の段落だけ加筆してそのまま投稿する。
殺されるくらいなら、死んでやるの覚悟で。
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強い熱情があって始めた商売でもない。
だらだらと、ぎりぎりに、社会に紛れる方便として始めたのが「古本屋 弐拾dB」だと思う。
つくづく、いい店名にしたと思う。
自画自賛、自意識過剰でそう思う。
店も5年目を航行中で、なんとか難破することなく、のんびり古本の海を漂っている。
寄港地にしょっちゅう寄っては、酔っている。
あるいは船の上(店の中)で酔っている。
酒に?あるいは自分に。ひどい船酔いである。
出航の際は、テープをにぎってくれる君がいたら嬉しいのだけれど。
件のウィルス騒ぎで、今年の春から今まで、イレギュラーな空気が漂った、漂っている。4月ごろに右目を少し悪くして、それどころではなかったけれど。さぁこれからどうなっちまうんだろうと思ったが、存外船は沈まなかった。
「水温集」の通信販売、本の見繕い通販、母親が作った手製オリジナルバック「救命サコッシュ」の販売、古書組合の入会、週2回のライブ配信「ラジオ防空壕」、二店舗目となる「古書分室ミリバール」の開店、「雑居雑感」の創刊と、それなりに「やってる感」を醸し出しつつ、いけいけどんどん。弾を込めて。売っては、弾を込める。
店を応援してくださる方に喜んで貰いたい、アッと言わしたい。ただ、そう思っての矢継ぎ早。お陰様で八月は過去最高の売上でもあった。コロナなんのその(その分、出費も多かったのだろうけれど)
このような状況でも、ご近所の方、遠方の方、新しい常連の方、懐かしい新規のお客さん、
様々な方が支えてくれている。心底有難いことだと思う。
古本屋だからと、文化的な営みをしていると思っておらず、饅頭屋や餅屋、ラーメン屋、タバコ屋と同じように客商売である。しっかり売って、しっかり喋って。今すぐ儲かる儲からないよりも(もちろんある程度稼がないとだめなのだけど)、人の営みとして互いに心地の良いリズムを生むために接していく。
どんな形態でも、どんな飯事な店だとしてもお客さんを守る覚悟もなく、ただ巻きあげればいいというようなのは商売でもなんでもなく、下卑た行為だ。そういうところの客も客で店を守る覚悟もなく、ただ消費できればいいといった体だから、ある意味利害一致しているのかもしれない。
倒れるのなら、古本屋として倒れたい。
ただ、それだけ。
売る本がなくなっても、本がなくとも
私がいれば、古本屋であれるようになりたい。
一冊が一つの声になったように。
一つの声が一冊になるように。
弾をこめる。引金だけは引いておく。
あとは君が撃ってくれ。
金木犀の匂いが私の夏を殺しました。
下書きを見てみると、去年の秋にこのような文章を残しておった。もったいないので、途中書きだが、そのままあげる。
いやはや、けったい亜熱帯、シミッタレ。
そんな文章。
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蛍光灯の明かりの下で黙々と発送作業をしていてる。今日は気持ち、蒸し暑い。窓を開けているからか、小さな虫みたいなのが畳の上をはっている。なるべく殺さないように息を吹きかけてはらったりする。時々知らないうちに死んでるのがいたりする。ここで死ななくてもいいのにと思いつつ、なんとはなしに自分の腕を見る。薄焦げ茶色の肌を見る。
「今年もこんなに焼けた。今年の夏もこの日焼けの分だけ生きた」しみじみと思う。
学生のときは、季節で一番夏が好きだった。
海やら山やらの行動的な理由ではなく、どこか生きている感じがするからという曖昧な理由。
夏というだけで、何かが起こりそうな気がして、何も起こらない。そんな生きている季節が好きだった。
古本屋を始めてからは、店にエアコンがなかったこともあって夏はとにかく生き延びることに精一杯で、楽しむ余裕はなくなった。夏はただやり過ごす。夏はただ、生き延びる。
今年も八月は「無休営業」と阿保な冠をカレンダーにつけて店を開け続けた。その間も本の仕入れがあったり、本の処分をしたり、ただただおろおろしたり、日を浴びて夜を生きて。
夏は懐かしいお客さんの「帰り」を待つ季節。あるいは、これから懐かしくなるお客さんに初めて出会う季節。お久しぶりですと言い、はじめましてを言う。お盆にしか会えない常連さんがいて、青春18きっぷを使ってやってくる。
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この続きに何を書こうとしたのだろう。
去年と大した違いはないのかもしれない。
悲しみは御家芸。
「また病気になっちゃったんです」
と彼女は言っていた。
仕事辞めようと思って、あ、でも来年3月までは。引き継ぎとかしないといけないので。それだけ伝えようと思って、じゃあ、また。
と言っていた。
そんな彼女に、
「共に頑張りましょう」
と声をかけてしまったことを一日中後悔している。その微笑みも彼女にとってコップギリギリのユーモアだったかもしれなかったのに。
これ以上、何と戦えと言うのだろう。
勝ち負けがあるなら負けを選んで、
毒を吐きながら飯を食べる。酒を呑む。自虐を自分で笑う。今夜は雨が降った。笑えたことって優しさなのかな。愛しているの言葉で昨日を白く塗りつぶす。今日も海を見ようよ。
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本を売っている時間よりも、お客さんと喋っている時間のほうが長い時がある。
毎日、帰ってくるお客さんの言葉に自分の言葉を重ねる。その殆どが女性で、どうして性別の違いでこうも生きづらいのだろうと思うこともそれなりに。あるいは僕の愚かな会話につきあわせてしまうことも、それなりに。
「藤井くん、してる店間違えてるよ」
と言われることもしばしば。
「呑み屋でもした方が儲かるんじゃない」
僕は、カウンターの外側で呑んどるほうが気楽なもんでと答えつつ、笑いつつ。
店をするって何かしら。
お客さんって何かしら。
店に立っている時よりも、立っていないときのほうが店らしくあるべきのような気がするんじゃけど、あなたはどんな?店をしていない時間に不機嫌になるくらいじゃったら、やめちないなよ。
これしかないと思え
あなたしかいないと思え
僕しかいないと思え
逃げた先が古本屋だった。
隠れた先が深夜だった。
夜と朝の間に隠した頁の切れ端は、
見つからないまま、
僕はまた渡せない物語を書き始める。
私の全生活が文学。
自分を愛したふりをして、
泣きながら、幸福な迷惑を生きろ
ps.
ブログの下書きを眺めておったら、こんな文章があった。ほんとうに自分が書いたものだろうかと思いながらも。まぁ、わしだろうな。過去の自分が迷惑だ。迷惑にもならないのもつまらないけれど。
古本屋で死ね
店を終えた日曜日の夜は、どこかに消えたくなるね。車に乗って。どこでもいいの、どこかに消えたくなるよ。そんなどこかはどこにもないんだけど。遠くにいけないよ。明日もあるからさ。雨が少しだけ降ってたけ。お腹が空いてただけなのかも。珈琲が飲みたくなったよ。あったかいやつ。煙草が吸えたらいいや。
「夜に開いてる喫茶店へでも行こうか。そんなのこの街にはないけどさ」
休みの日は何しているんですか?と聞かれて困ってしまった。休みの日がちゃんとあってもしたいことがないから。ちゃんと働いている訳でもないのにね。古本屋で死ね。と言い聞かせる。それ以外に生き延びる方法もなく。
「みんなは休みの日は何をするの?誰かを愛したりするの。あるいは、誰かを憎むのか。どちらもいない人はコンビニで何を買えばいい?」
例えば、卵かけご飯を食べる時に、卵が茶碗の外に落ちないように、いい感じにですね、くぼませたりするじゃないですか。例えば、パスタ茹でる時に、一緒に、レトルトソースを同じ鍋で茹でたりするじゃないですか。もっと言えば、洗濯機を回している時間に、部屋の掃除すませちゃおうとか思うじゃない。
そんな小さな些細な細々とした生活の工夫にひとり悲しくなって、誰もいない敵にひとり挑んで、呆然とすることはない?悲しくなって、その鍋ごとを全部捨てちまいたくなるよ。
もったいなくてできんけどね。
生きるために古本屋をしているのか、
古本屋をするために生きているのか。
時々わからなくなるよ。
死ね、死ねと、自分に言う心で死ねない手が髭を剃る。
「人を傷つける人が、傷つけられることには不寛容なのも不思議なことね」
その人が死んだら、いや死んでも気づかないでしょう。いつも通り、省みずに「ムカつく」だの言っていれば良いのですよ。あなたが殺したとしても。いいじゃないですか。ムカつくと言っていればよかったのだから。いいじゃないですか。誰もあなたの言葉に興味ないんだから。
不平不満も生活の糧、ですよ。その糧で食べるご飯も美味しいよ。きっと。
僕は気づけば、売った本のお金でご飯を食べている、お酒を飲んでいる、誰かに手紙を書いている。文字通り、本に生かされている。
本を売ることに深い意味を持たせたくはない。けれど、本を売ることにドライ乾燥になるほど乾くこともできない。ただ、本が好きだった。好きなだけ。好きになっちゃった。好きなものなら、いつまで売っていても買っていても嫌にならない。今まで見たこともない本にどきどきする。古本を買い取った時に、何人かのお客さんの顔が浮かぶ。いいでしょ、と言った詩集にいいですねぇ、と18歳の男の子がにやつく。よかった、届いた。と思う。会話なくとも、つけた価格でさらりとお客さんが買って帰る。それが、もう、たまらなく嬉しい。
その瞬間のたびに呼吸が続く。
古本屋で生きる。
古本屋で死ね。
他にできることもない。
他にしたいこともない。
頁をめくる音で息をしろ。
誰かが生きた時間で己を生かせ。
誰かが死なないために、古本屋で死ね。
店、開けずとも(防空壕における読書のすすめ)
久しぶりのブログ更新。
店臨時休業中のダメ店主です。
今週月曜の朝、というより未明。
右眼に激痛が走り、起きて見てみると赤く充血。どうやら、やばそうだとすぐさま病院で診てもらうと、思ったよりもひどかったようで.「角膜潰瘍」というものになったらしい。
眼の異物感、光の刺激を強く感じ、涙が止まらなくなったりする。コンタクトの不衛生な使用が原因。心当たりがずばりとあるので、いやはや情けない。
このまま進行してしまうと、最悪失明。
よくなっても視力障害が残るかもしれないという。最初診てもらった先生がやけに、怖い声で「酷いですのでね。頑張りましょう」と声をかけられたしまった。
第一に、ため息。第二に、見えなくなっちまったらそれはそれとして。独眼竜古本屋店主としてやっていくしかないか、という諦め。
樹木希林のモノマネの習得、眼帯キャラクターの研究に勤しむかという、諦めゆえの前向き。
現在は実家にこもり、ひたすら目薬をさしつつ休養をとっている。その甲斐あってか、最初よりはいくばかり良くなってきた気もする。
ただ、すぐには良くもならないので様子を見つつ無理をしないことを心がけるしかない。
今週の土日には店を開けようかとは思う。
無理はしない。というよりできない。
酒も飲めない。飲みたいのだけれど。
時間は悲しいほどあるので、なんとはなしにツイッターを眺める。
件のウィルス関連に対する、情報、感情に溢れ、しばらくするとこれはやっぱり面白くもない。どうも、顔が見えない暗い。仕方ないと言えばそれまで。僕も、きっと、同じだ。高みの見物とはいかない。
自宅から外出しないようにという呟きを見ながら、暮らしでの細やかでくだらない呟きを見ながら、少し古本屋店主(若輩)らしいこともしてみたくなる。「こんな時だからこそ、読書を」と一口にいっても、普段読みなれている方ならいざ知らず。あまり本読まないんだけどもね、という方向けに少しばかりの本紹介でもしようかしらんと思ったりする。店を開けれない店主の暇つぶし、悪あがきと言われればそれまで。ただ、この状況を良くしなきゃ、何かをしないといけない。というのはどうも違う気もしているので、なるべく慎重に。いつもの、あなたを忘れないで。これは、僕の暇つぶしだから、付き合わなくてもいい。付き合ってくださるのなら、温かいお茶を飲みつつ聞き流して。
なるべく安く、手軽に手に入りそうなもの。
読んで難しくないもの。あまりに知られているし、あえて僕がおすすめしなくとも、みんなが知っている作家が多い。
それは僕の読書量の貧弱さから来るものなので、許してほしい。けれど、本の楽しみ方については独りよがり的にやってきたつもりだから、試食のつもりで。
①旅すること
「怪しい探検隊シリーズ」角川文庫
「深夜」はバックパッカーのバイブルと言われるほど有名なので、あまり僕が解説をしても意味がない。旅行に出れないのだから、気分だけどもという趣向なのでシンプルなおすすめなのだけれど、沢木耕太郎の文章力に引っ張られながらユーラシアを旅するのは心地がいい。第1巻、「香港、マカオ編」での「大小」という博打のシーンはよく覚えている。僕は中学生の時に、二段ベッドで夢中になって読み旅をした満足感を得た。そのためか、未だに海外に行ったことがない。
椎名誠の怪しい探検隊シリーズは「焚き火、ビール、ガハハ」「川、海、山、野宿、民宿、ビール、ガハハ」.といった能天気さが心地いい。
心の奥底からほんのりと温まる。麦酒を買ってきて、読むのをおすすめする。
「パタゴニア」は椎名誠にしては、少し暗いスタートで始まる。家庭でのちぐはぐした不協和音、その中での旅の始まり。ただ、本に収められた文章、パタゴニアの風景写真は、中学生の僕に強い印象を残している。今読んでも色あせない。パタゴニアにはいつか行きたい。たぶん、そのいつかは来ない。
②怠けること
「本と怠け者」ちくま文庫
「書生の処世」本の雑誌社
「怠惰の美徳」中公文庫
僕が怠けることに、なんのためらいも恥じらいもなく、堂々することができたのは荻原魚雷さんの随筆本に出会えたことが大きい。
「借家に住み、あまり働かず、日中はたいていごろごろしている。古書店めぐりをすませたあとは、なじみの高円寺酒場で一杯。」
-「本と怠け者」裏表紙あらすじより
この一文でもう最高じゃないか。
いっぱい働きたくない、飢え死にしない程度に稼ぎたい。本を読んで、酒を飲めたら、それでいい。たゆたえでも、沈まない暮らし。前向きというよりかは、下向きな生き方なのだけれど、今怠けていることに引き目を感じている人におすすめしたい作家。
そんな荻原魚雷さんが編者になっている「怠惰の美徳」は梅崎春生のナマケモノ随筆集となっている。読んでいてもくつくつと笑いが止まらない。あわせて、どうぞ。
③嫌いとは言わずに...
村上春樹 初期三部作
「風の歌を聴け」
「羊をめぐる冒険」
講談社文庫
短編作品集
「パン屋再襲撃」
「中国行きのスロウ・ボート」中公文庫
「カンガルー日和」
村上春樹、読んで嫌いな人は流していただければ。まだ読んだことがなく、気になっている方向けに。素直にデビュー作「風の歌を」から始まる初期三部作を続けて読むことをおすすめする。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
こんな一文から始まることに、どきっとする、
部屋にいながらにして、潮の香り、あるいは北海道の山小屋の冷たさ、BARで喧騒、夏の孤独を味わうことができると思う。「羊をめぐる冒険」のラストシーンはいま読んでも、ぐっとくる。この時も是非、缶ビールを買って横に置いておいてほしい。
軽めに読み始めたい方は、短編作品集がおすすめ。学生時代の僕は「パン屋再襲撃」を読むためだけに、深夜マクドナルドに行きチープな味のハンバーガーをもぐもぐ食べた(何故マクドナルドかは作品を読んでいただけたら分かる)
「中国行きのスロウボート」、安西水丸さんの装画がお洒落で持っているだけで楽しくなる。
そこに収められた「午後の最後の芝生」は、若い人はなんとはなしに好きなのでは思う。
まだまだ、書きたいのだけれど眠らなくてはいけないので今日はこのあたりにしておく。
無理はしない、というよりできない。
僕の希望は、
店、開けれずとも古本屋をしていたい。
店舗がなくとも、本がいま手元になくとも、
本を売りたい、届けたい。
あと、酒を飲みたい。
あわよくば、君と。
また、会いましょう。
悲しみで心はいつも半分濡れている。
毎朝 ポストを見て
出してもいない手紙の返事を待つのが
私の幸福です
私の幸福は
ここになくていいと思う
遠くにあってほしい
感じれただけで
それで
毎晩 テレビを見て
何気なく笑ってしまった声が響いたのが
私の悲しみです
悲しみで心はいつも半分濡れている
幸福な心は増えるたび 少しずつ湿てゆく
片方しかない靴下が私です
家にあるはずの
もうひとりの靴下は
どこで
埃をかぶっているのだろう。