声にはならない声で(年始の挨拶に代えて)
こんばんは。
あるいは、おはようございます。
それともこんにちは。
いいや、あけましておめでとう
なにがめでたいのかは知らないけれど。
きっと君もあなたもそうだと思うのだけれど、
年が明けてしまうというのは悲しいことだね。
年末の街に漂うそわそわした感じが好きで、別れ際に「良いお年を」なんて柄になく言ってみたり、仕事終わりに顔に浴びた冬の風は、冷たいにも関わらず柔らかだったり。大晦日は退屈な風景そのまま、素面のままで世界を終えてくれるような気にもさせてくれた。
お酒を呑んだりお菓子を食べたりテレビを見たり(バイトの休憩中にカップ焼そばで年越しそばだなとふざけてみたり)しているうちに、ハッピーニューイヤーと言わされている。あんなに愛していた年末がもうタイムカード押して帰宅してしまう。一緒にふざけあっていたのに。買ってきたお菓子はまだ余っているのに。
1人で食べきれとでも言うのか。
ハッピーニューイヤーとまた言わされている
なにも幸福ではないのに、
あのまま始まらなくてもよかったのに
終わりだけが 、いつも、綺麗に、みえる
年が明けてしまうというのは悲しいことだね
悲しいことは悪いことではないのだけれどね
僕は今年の年末にも同じように、年末と一緒にふざけあえるだろうか。ふざけあえたらいいな。でも、会えない時間が長すぎるよ。
すると愛しの年末くんはこう話し始める。
ひとは 会っている時間よりも会っていない時間に思いの多くを喋りかける。声にはならない声で。そのくせ、会ったら会ったで話すことが思いつかない。愛想笑いを繰り返したり、つまらない冗談ばかりを話している。会える時間はもうそんなに長くもないのに。別れ際だけはいつも寂しそうな顔して。見えない僕はいつも側にいるから。また一年共に喋りあいながら。
また会える日まで。おやすみ。
年末はいつの間にか正月になっていた。
正月はいつの間にか平日になっていた。
月灯はいつの間にか朝日になっていた。
僕はいつの間にか 眠ってしまっていた。
ひとは
会っている時間よりも
会っていない時間に
思いの多くを喋りかける
声にはならない声で
「この話覚えてる?元気にしてますか?美味しいご飯食べてますか?最近、どんな音楽聞いた?好きそうな本があるから読んでみてほしい。あと教えてほしいことがあるんだ。僕のしていることは間違っていないだろうか?」
今、冷たい扉を開けたあなた
白い呼吸はあなたを傷つけながらも
あなたを守り続ける。
どうかお気をつけて
いってらしゃい。
(声にはならない声がいつも僕を抱きしめる)
何も書かれていない事と近しいのに
詩が書けなくなったから
写真を撮るようになったんです
感じたことを残さなくてもいいように
言葉が見つからないから
歌を歌うようになったんです
意味に足元をすくわれないように
忘れるために思い出しています
あなたの鼻歌、振り返った夕日のこと
もう、何度も、
忘れる必要がないように
(日々の生活で、詩だとされるもの、詩集だとされるものがたまに嫌になる。詩とは、今目の前で揺れている時間や空気。パッケージされたものだけではなくて、開かれたもの。ひらひらと宙を舞っているもの。
コンビニの蛍光灯や、出勤時のおはようございますや、振込み金額だとか折込チラシ、友達との約束、来月の予定、ストーブの匂い、硬貨の冷たさ、布団の中でみた顔や、夕日。海。
今目の前で、起こる全てが詩だと思うから。
身体に残ってしまって、目の前から消えて、いつの間にか僕の身体からも消えて、気づいたらあなたの中へと残ってしまった、その何か)
これが、僕の詩です。
と、ポケットから僕は手を差し出す。
(あなたがいなければ、
何も書かれていない事と近しいのに)
詩に濡れること、詩を飲むこと
雨が一行、
また一行と降ってくる
詩と詩とと、降ってくる
水たまりになった言葉は染みて、
読めなくなっていく
(夜の暗さは行間です)
傘もささず君が、雨に濡れている
守られることも拒んで
いま 言葉に濡れた人が扉を開けた
その時 僕に何ができるだろう
その時 言葉はいらないだろう
差し出した焙じ茶も、また
ひとつの水たまり
飲むことで読める ひとつの詩
一声一行、一日一頁。
どうしてなんで、古本屋を始めたのか。
それを僕はいくらでも話すことはできる。友人のとある一言で、本が好きだから、社会不適合者が社会に溶け込むひとつの方法としてetc.
けれど、その言葉を語れば語るほど僕は空洞になる。からっぽになる。多く語ることごとに、色が、音が、漂う空気が薄くなる。言葉にすればするほど、始めたときの時間が整頓され綺麗で分かりやすい物語になっていく。(ブログに溢れる自信に満ちた文章におびえてしまう)むしろ、日々のくだらなさに無根拠な意味を見出し、遊びふざけていたくもなる。
逃げているのだから仕様がない。
何から?
という、その質問からも逃げたい。
僕は何度も、この文章を書いては消し、書いては消しを繰り返している。
書けば書くほどに、自分がこんなことを考えていたのか疑わしくなる。かっこつけようというジェスチャーが見え隠れしては消す。
仕様がないね。照れ笑い。逃げてるから、ねと。
僕は諦めた。自信のなさに自信がある。今日から少しずつ書いてみようと思う。
どうしてなんで古本屋を始めたのか。
その質問については今まで何度も答えたけれど、自分自身の答えにあまり意味はない。
お店を始めた時からこの古本屋は僕だけのものでなく、お客さんとの共有物だと思っている。
その共有物である自分のお店を僕は一冊の本のように見立てて過ごしている。
お客さんが漏らしたあくびや、僕のいらっしゃいませも。本棚に本を戻すときの音も、時計、深夜ラジオも、それを聞いてた時間も、外を走る貨物列車も、店まで来られる道中も、お客さんとの(あなたとの)会話も、買ってくださった本たちも。
一声一秒ずつが、本の一行のように。
お店で過ごした一日が、本の一頁のように。
だから、今、あなたが見ているものが本の一部なんだよという気持ちで、僕は今あなたと一緒に物語を作っている気でいます。古本屋という一冊の本の完成に向けて、共に声を重ね、耳を澄ませながら一行ずつ作れていけれたらと図々しくも願っています。
あとがきは僕には書けないかもしれないので、
どうか、読者に(あなたに)書いて欲しい。
そんな妄想をしながら。