唐揚げにレモンをかけることに戸惑いながら

だいたいのことは分からない

分からないなりに、「あ、はい」と返事する

分からないなりに、「申し訳ありません」とメール打つ

 

気づけば笑っていたのだ

その方が楽だからか

気づけば、笑ってしまうのだ

その方が嘘ではないから

 

(小説家になると言っていた高円寺の男は胡散臭かった)

 

唐揚げにレモンをかけることに戸惑いながら、

二十歳を越してしまった

唐揚げにレモンをかけることに戸惑いながら、

二十六歳になっちまった

 

かけたら旨いのか?

分からんから、最後に少しだけ

おまじないのように

 

 

だいたいのことはばれている

分かってしまうから、 笑い話で場を濁しました

分かってしまうから、目は合わさなかった

 

綺麗な人から手渡された

言葉が汚く見えてしまうのだ

綺麗な人から手渡された

言葉はいつでも無色のはずだけど

 

(優しい目をした女の子が木屋町の喫煙所にいて、僕は少し安心してしまう)

 

唐揚げにレモンをかけることに戸惑いながら

雨が降ってきました

唐揚げにレモンをかけることに戸惑いながら

春を捨てちまいました

 

笑えばいいのか?

分からんから、最後に少しだけ

おまじないのように

 

 

死ぬのはあと一週間待ってほしい

 

「いつ死んでもいいと思っとるんよね」

誰がいったか僕がいったか いついったか

ほんまにそうかな不安なって考えた。

いや、そうでもないわ そこまで潔くはないさ

今日死ぬのちょっと早いわ

明日もちょっと いや結構嫌だ

たぶん そうだ あと一週間待ってほしい

今週いっぱい 待ってはくれまいか

土曜日には仕事終わりに一杯ひっかけたい

あの娘に会って 声聞いときたい 

台詞めいたこと言っちゃときたい

映画館のポイントカード貯まっとるし

使っときたい まだ映画決めとらんけど

読みかけの本が たぶん4冊ある

あ たぶん この私のスピードだと間に合わん

全部諦めて 好きな詩集繰り返し読もうか

声に出して 夜に 朝に なんべんも

手紙を出したんだ

たぶん 返事は来んけどね

けど もしかしたら

黄色いポストに青い便箋

落ちとるかもしれんから 

だから 待ってはくれまいか

それゆえ 待ってはくれまいか

死ぬのは あと一週間待ってはくれまいか

大したことはしないけど できないけど

 

いつ死んでもいいなんて

そんなことはない、な

って思って今日も夕暮 深夜 早朝 昼過ぎて

 

僕は素敵な無駄遣い 

嫌いになれない 一日が 昨日になった

好きになれない 一日が 今日になった

溜息が漏れた  靴下の穴から

伸びすぎた孤独が 少し笑っとる

 

 

一夜分の本たち

ゲストハウスの仕事を終えて、家に帰る。というよりは店に帰る。二階は暮らしている部屋で一階が店なので、どちらでもあっているのだけれど、店に帰るというのもおかしな表現だ。

 

23時古本屋オープン。さきほどまでゲストハウスの番台に座っていたのが、今度は古本屋の帳場に座っている。まるで座ることが仕事みたいだ。呑気なその日暮らし。その場しのぎとは呼ばないで。

 

扉を開けると、お客さんが一人また二人とやってくる。はじめてのお客さんは口々に「ここ元々なんだったのかな」とか「おばあちゃん家の匂いがする」とか「あ、暖かいね」など話している。そういえば、以前あるお客さんに「意外と(店内が)暖かいね」と話しかけられて「本があるからね」と答えたこともあった。

「それ、いいね」

 

「本があるところは暖かい」

思いがけず出た言葉だったが、我ながらに好きな言葉。

 

 常連の知り合いがやってきて、あれこれ尾道の話。「街の本屋は文化の城」などといった高尚な惹句とは程遠い店だが、ここが居酒屋でなくてよかったなとも思ったりする。世の中に溢れる店は訪ねるだけでも、だいたいお金がかかる。お金がなくとも、手ぶらでも行けるのが本屋のいいところかもしれない。店主にとっても、買ってくれないことには手ぶらのままなのだが。

 

あるお客さんから

「何か哲学系でオススメの本はありませんか」と尋ねられる。「どんな本がいいんですか」とこちらも聞いてみる。「何かこう、いきる本。いきるの字は活きるという意味の」

本のお勧めを聞かれる時、その質問が抽象的であればあるほど難しい。何かお勧めは?と聞かれて、ここが居酒屋だったらもう少し分かりやすいのにと思い直した。居酒屋ならメニューを見せながら説明できるが、古本屋のメニューは棚に並ぶ本が全て。一品ずつ説明するには夜は短すぎる。結局は自分の頭で思い当たる本をいくつかご紹介する。今日はたぶん口当たりがよく、鞄にいれても心地よい本。眠れない夜に開く本よりも、常にそばにあってほしい本。

これなんかどうですかね?と加藤秀俊「暮しの思想」中公文庫を勧めてみる。厳密には哲学系ではないかもしれない。けれど、なんとなく好きなんじゃないかなと思った。

 

一ページずつめくり、彼女が一言

「あ、いいですね」

その言葉を聞くたびに、よかった。救われた。

と思う。店を続けているのは、自分自身がお客さんに救われたいから。いや、掬われたいからか。一週間に数回こんなことがあると、また明日も一日ずつ頁をめくることができる。そんな気がする。

 

彼女が選んだ本を会計すると合計金額が2800円になった。2800円。働いているゲストハウスの一泊の宿泊料金と同じ。そう考えると、この小さな本の丘が、一夜を露に濡れずに寝るため金額なのかと思う。どちらが高くて安いという話ではなく。自分がそういったものを売っていることに小さな喜びを感じてしまう。

 

27時閉店。

表看板を下げて店に戻ると、「千夜一夜物語」の広告帯の切れ端が地面に落ちていた。

 

続きは、また明日。

敗戦布告。

 

 

初めから負けているのなら、僕らが守ろうとしているものは何なのでしょうか?

誰かを殺してまで。掬いとろうとしたものは?欲しいものはもう何もないかもしれないのに、どこに行きたいというの。

 

いつもいつでも逃げたいよ。けれどどこに逃げるというの。逃げたら逃げた分だけ追いかけてくる。添加物にまみれた風景だって愛せるはずさ。

 

生きることが文学だ

今吐く息、吸った声が文学だ

書かれたものは一回死んだもの。

じゃあこれを読んでる君は生きてる人?

 

店を開け続けることが唯一の抵抗運動。

負けを認めて、けれど負けたのだから、これ以上負けやしない。

誰も殺さないために僕は僕自身に銃をむける。

忘れもの。

お昼をやけに静かで暗い食堂ですませて、出ようとしたとき、マフラーがないことに気づく。机の下を覗き込んでみても見つからない。おそらく、さっき乗ってきたバスに忘れたらしい。忘れ物の問い合わせの電話をいれて、調べでみますので、夕方頃に再度問い合わせをしてくださいと返事を貰う。

陰気な気持ちで、喫茶店に入って珈琲を啜る。

 

緑のマフラー。緑のチェックのマフラー。

去年の冬に人から頂いたマフラー。

今晩あたりから急激に冷えるらしいから、首元がより寂しい。いや寒しい。

 

思えば、今まで色んなものを忘れて無くしてきた。家の裏山登りに熱中していた中学生時代、父親が持っていたガスバーナーを勝手に持ち出し、ひとり湯を沸かしてインスタントコーヒーを飲んでいた。ませていた、というか我ながら変わった子供だった。何回かそうやって使っていたとき、家に帰るとリュックに入っているはずのガスバーナーがない。リュックをひっくり返しても見つからない。山に落としてきてしまったようだった。父親には小さく怒られた。

 今年の10月頃に福岡に旅行にいった際は、何軒か呑み歩いているうちに、お気に入りのポケットラジオをなくした。案内をしてくれた、古本乙女のカラサキさんには「きっと何かの不幸の身代わりになったんだよ」と励ましの言葉をかけてもらう。なるほどとその時は前向きになったものの、自分の不注意さに暗くなってしまった。

 日々暮らしていても、靴下を片方なくしては家じゅうを探索する羽目になるし、(無くすことを予期してユニクロで靴下を買うときは同じ柄を3つ買うことにしている。片方ずつ靴下をペアにして履けるから。情けない処世術だ)、読みかけた本を、お店に置いたまま忘れてしまっていたり、雨があがればさっきまで持っていた傘を置き忘れて呑気に家に帰り、コンビニにいけば、会計をすませたあとの商品をうけとることを忘れていたりする。

 

思えば、忘れ物ばかりしている。

そうして、忘れたことが徐々に無くしたことに変わっていく。人から受け取った、頂いたものを毎日忘れては無くし、いつのまにか無くしたのこと自体を忘れている。忘れものだらけの日々をボーゼンと繰り返している。

 

反省してないわけじゃない。

気をつけようとはしている。

けれど、忘れものをするときはいつも予期しないタイミングで忘れ、無いことに気づいた時点で振り返る時間を持つことになる。気をつけてはいても、人は忘れていく。大事なものからひとつずつ。そういえば、あのマフラーはどんな顔して僕は受け取っていただろうか?まだ去年のことなのにそれすらも忘れている。

 

 

旅先の京都。今年何回めかの京都。

今晩あたりから急激に冷えこむらしい。

外は雨が降り続いている。

僕は二杯目の珈琲を注文する。

この日のことも僕はたぶん少しずつ忘れていく。時間におかわりがあるなら、僕は何杯おかわりしたらいいんだろう。もしマフラーが見つかったら、それはどこにあるのだろう。

 

外は  雨が降り続いている。

 

 

二〇一五年一月ノ京都ハ雪。(サークルKサンクスの思い出)

サークルKサンクスが、11月末をもって無くなるらしい。ファミリーマートに変わっちゃうらしい。広島ではあまり馴染みのないコンビニチェーンだったが、学生時代を過ごした京都ではだいぶお世話になった気がする。

入学する前に父親が京都市街地図を僕にくれた。そこに記載されている「K」の文字を見つけながら、ああ違う街に来ちゃったなとも感じたのを覚えている。

大学の先輩は、サークルKサンクスを「マルケー」と呼んでいた。看板が○にKだから、マルケー。真似してそう呼んでみると、不思議な親近感を覚えた。友達のニックネームのような。

 

悲しいかな、平成生まれの僕らの心象風景にはコンビニエンスストアも含まれるように思える。

 

伏見区深草に自分の城を築いた大学生の僕は、そのマルケーで不健全な肉体になる食べ物を沢山買った。缶ビール、菓子パン(マルケーのメロンパンが一番美味いねんと言っていた友達はどうしてるだろう)、友達の家に持っていく急ごしらえのお菓子、呑み会帰りのカップ麺。コンビニ弁当は不思議と買わなかった。

 

あんなに嫌いだと言っていた煙草もそこで、買った。初めて買った煙草は赤色だった。先輩に重すぎるから違うのにしたらと言われて「ライト」と書いてある青色の煙草に変えてみた。タールはさらに重くなっていた。ライト違い。安いのにしてみようとオレンジ色の煙草を買って、あまりに不味くて惨めな気持ちを噛み締めてみたり。(辻仁成をぶん殴りたくなった。)

 

そういえば、あの街は公園が多かった。この季節には公園の木も紅葉していた気がする。金木犀の匂いも好きだった。

 

サークルKサンクスの個人的な思い出をもうひとつ。

2015年、1月1日。

実家で年越しをした僕は、新幹線で京都に帰っていた。卒論がまったく進んでいなかったし、早くアパートに戻って続きを書かなくちゃいけなかった。その時期、僕は個人的なことで、かなりしんどかった、えらかった、たいぎかった。下ばかり見てた。

京都駅にもうすぐつくときにふと窓の外を見ると、線路が白くうっすらとしている。

 

雪。

 

元旦の京都は夕方から雪が降っていた。

とても綺麗で嫌な気持ちにもなった。

そわそわとして、ひそひそとした京都駅に着いてすぐ僕は地下鉄に乗った。

 

「なめらかマンション」と勝手に呼んでいたアパートに着いて、僕は何もしなかった。外ではまだ雪が降り続いている。

夜、大雪の街を散歩に出てみた。呑み屋の前に大きな雪だるまを見つけて少し嬉しくなったが、すぐ暗くなる。どうしてか、ただただ悲しかった。寒かった。それは覚えている。

 

翌朝、煙草を買いにマルケーに行った。

あんなに積もっていた雪はちらちらと駐車場に残っているだけだった。汚かった。

買ってすぐ、マルケーの外で一本。

吸いながら、また下を向いてしまう。

エンドレスリピートでドレスコーズの「パラードの犬」を聞いている。

 

うらぶれのリゾート サリー・アストン
はかない夢と いたずらに添う

メスカリン
コンガ
すりきれの愛情
ロートレック
愛想笑い
ビ・バップ

それと サリー・アストン

色褪せたリボン サリー・アストン
アスペラ咲いたよ 大切な花壇

防砂林
ランバン
ラベルのない小瓶
ボードレール

ローレライ
イン/アウト

それと サリー・アストン

「パラードの犬」作詞 志磨遼平

 

煙草の灰を下にそのまま落としていた。

落としても落としても、

次々と灰は降ってきた。

灰、灰、灰、灰。

灰色。

煙草の灰だったと思っていたのは雪だった。

灰色の雪。あるいは雪のような灰。

 

「二〇一五年一月ノ京都ハ雪」

 

サークルKサンクスの派手な色だけが灰色の風景のなかで妙に浮いていた。

 

 

そんな思い出の三色も無くなるらしい。

もし灰色のなかで、あのお店が緑と水色だったらその時の印象は違っていたと思う。

 

今、調べてみるとサークルKサンクスの「サンクス」は太陽のように暖かく明るい「SUN」とありがとうの「Thanks」をかけ合わせた造語らしい。ちょっと恥ずかしい気持ちにもなる。名前にではなく、その時の自分がその「暖かさ」に少なからず救われていたことに。

 

あの時の自分に代わってありがとうを伝えたい。

 

 

 

 

 

深夜3時、異常なし

 

「今夜もオープンしました。23:00-27:00.」

 

おそらく昨日もオープンしました。

たぶん明日もオープンするでしょう。

繰り返し繰り返した行いを

続けていくこと。

お店とはと考えることも

一時放棄して。

 

 

あの本を書いた人はもう死んだ人

あの本を買った人はまだ生きてる人

まだ生きているとは、本が読めること、本を買えること、本を贈れること。

そして、あなたはあなたの生活を綴れるということ。

 

 

「深夜の本屋が夢だったんです」

東京からきたあの人、野良猫と一緒にやってきた人。その一言で僕は救われたんだ。

 

「ええなぁ、あんたは女の子見ながら金が貰えて」

足の悪いおじいさんが200円握りしめて深夜に。そんな彼のジョークに僕は笑ったんだ。

 

「がんばってくださいよ」

いつも応援してくれている近所のお坊さん。

その夜は赤ら顔。本を沢山帳場にもってきての一言。彼の言葉を理由に僕はお店を続けれている。

 

就活スーツの女の子。面接帰りだろうか。過去の自分と重ね合わせてしまい、多めに声をかけてしまった。大人たちはどうして現実を怖くしてしまう。僕たちはささやかな幸福を抱きしめたいだけなのに。

 

若い地元の新聞記者。ちょうど彼に合うと思った本が入荷していた。ニコンの本、彼の愛機はニコン。「これはいいですね。こんな写真はデジカメでは撮れない」

その一言に僕も生かされて。

 

「よく2人で弐拾dBの話をするんです」

京都からの髭のお兄さん。昔彼女さんときましたよね。たしかレコードの話や、京都の話をしましたよね。誰かの声の中で一瞬でも生きれたことを、僕は。

 

夜に隠した言葉、朝になる前に見つけた答え、

ただラジオの音楽に耳を傾けた時間

 

声のない、声。

ここにいない、あなたの。

ここにいたあなたの。

いつも、そこにいるあなたの。

 

 

我儘で傲慢な高飛車な思いだけれど、

この人の、あの人の声を守りたいと思ってしまうのだ。一瞬だけでいいから。

そのためにも、僕は僕の生活を守らないといけないのだ。

 

 

歴史の最前線で、未来の最後尾で、

脱走兵の僕は誰も殺さないための銃を握る。