孤独を飼いならして、時々可愛がる

雑誌CREA11月号にて、選書の機会を頂いた。

名だたる日本全国の本屋の店主さんもとい、書店員さんの名前のなかに自分の名前があるのは、身分不相応とも思いながらも有難い限りだと思う。

 

 お店をされている方には、雑誌の取材やテレビ取材などメディア露出を好まない方も少なくないけども(逆にメディアに出ることにのみに心血を注ぐ人もいる)僕はお声がかかればなるべく出させていただくようにしている。何がきっかけでお店を知ってくださるかは分からない。少しでもお店のことを知っていただいて、未来の常連さんに出会う確率が増えるのであれば、自分自身をネタにしてでも世間に顔を晒す手はない。僕自身、雑誌の特集記事やテレビ放送で知ったお店も沢山あった。もちろん取材してくださる方々も同じ人間であるのだし、大切なお客さんのひとりなのだから、あまり無下に断りたくない。

 

CREAの掲載では「本の処方箋」ということで、雑誌読者の悩みに書店員が本の選書で答えるといった趣旨の頁。(おそらく、僕のお店が元医院であることや薬袋モチーフの書皮を本に巻いていることから今回お声がかかったのだと思う。店主の力量よりも元の物件としての磁場にいつも救われている)

 

ちらりさらりと、読んで頂いた方にはご存知の通り、質問は30歳を越した独身女性の孤独に向き合うものだった。仕事も充実していて、結婚したい訳でもないが、どこか心にふと訪れる不安にお勧めの一冊を。

さて、まだ25歳でまともに会社に勤めたこともなく、結婚もできそうのない青二才が何をお勧めしたらよいのか。その人の声や顔、服や好きな音楽に本も知らないのに本を紹介するというのは暴力的な気もする。無責任だとも。

同時に、人は他者の無責任に救われることもあると僕は思う。何気ない酔っ払いじいさんの一言を金言として受け取ることだって僕たちにはできる。むしろ相談話に対して生真面目に反応されてしまうと気恥ずかしくなる。適度に流しつつ、気の利いた一発の台詞が欲しかったり。僕はそうだった。無責任に人は救われる。

 

僕が何の本を選んだかさておき、

孤独について。

 

孤独といったって、僕たちはその言葉の本来の意味を理解できていない。たぶん、今までもこれからも。孤独のなんたるかも知らずに、なんとなく使ってしまう。孤独。実はその孤独とやらは、美味しいものをたらふく食べたり、愛しい人とのひとときを過ごすことによって薄くすることができる。し、実は孤独を手放したいとも思っていない。孤独感が綺麗さっぱりなくなれば、今度は乞い求める。その繰り返し。

 

僕たちが普段飼いならしてる孤独は、荒野のただ中にあるものというよりは、コンビニなどで売られているものに近い(スーパーマーケットよりも少し割高な)

時々買い足して、消費して、使い捨てる。

心が空いたらまた買い足して、消費して、使い捨てる、孤独。

 

そんな孤独に対して、本にできることは何か。

それは自分の感情に少しの輪郭を与えることではないのだろうか。頁に書かれた言葉を噛みながら、徐々に吞み下す。体に取りこまれた言葉は形にならない感情に輪郭を与え、触れることのできるものにする。本には無数の言葉によってできた多重の輪郭がある。その輪郭の一片をしばしお借りする。

 

僕は孤独を捨てたりしないで、飼いならす。

小さく撫でて、可愛がる。

時々噛まれた先から血が流れても、

私たちは悲しく笑う。