夏の雪が降っている

 

夏は人の死が肌の近くに感じられて、

それが薄着のせいなのか

お盆なんてもののせいなのか、

わからないけれど、

幽霊が見えたらいいなと

お腹が空くたびに思ってしまう。

水族館にいる魚は

ほとんど死んでいるみたいだった。

死んでしまった人の左手にも

生命線が残っていて、

目の前のこの景色が生きているかどうかなんて

私には永遠に分からないと思う。

ちゃんと、動物すべてにおいしそうだと言える人でありたい。

私のこと忘れないでと願うたびに、

きみは私を忘れていった。

かならず帰る、という連絡ほど、

人を、幽霊にするものはない。

最果タヒ 「精霊馬の詩」

 

 

 

 八月十五日は台風が通り過ぎた。

電車の音が無くなり、時折虫の声が風に混じって聞こえた。嵐がきているというのに、普段よりも静かだった。東風さんとの朝営業を終えて、昼ご飯にとんかつを食べた麦酒を飲んだ。(もしかしたら今日、世界が終わるのかもしれない)そんな妄想をしてしまうほど、静かでいつも通りで、つつましい時間だった。

 

お昼を食べ終えシェアハウスに帰る途中、

東風さんが

「夏の雪が降っている」と言った。

さらさらと降る小雨のことを指しているのだった。

それいいねぇなんて僕がにやつくと、何かに使っていいよとケラケラ笑った。

 

夏の雪が降っていた。

まるで、年末のような優しい静けさだった。

 

ちょうど年末のことを考えていた。

店をはじめて去年あたりから、年末に向けて毎日を過ごしている節がある。あの時間、あの季節に向けて、日々一瞬一声一秒を無駄遣いしている。

 

八月十六日。

遅めに起きて、実家のある隣町へ。

せめて墓参りだけでもしたかった。

なんとなく、お盆というのは死者が空から帰ってくる印象があった。空からやってきて、空へいつ間にか消えている。けれど今年のお盆が近づいて、そうじゃない気がしてきた。

空からやってくるというよりも、地面から、あるいは自分の足元から、底から、体を通して、私の体に一緒にいるような感覚。

死者が、生きている私の体の中で少しの間一緒に生きている。そんなイメージを抱いた。

私が喋っているのは、彼女が(彼が)喋っているのではないか。そんなことを考えてみたりも。

 

でも、と思う。

彼女と共に生きていた時間はそれほどまでに美しかっただろうか。綺麗な言葉で語られない、生々しくも現実的な浅はかさがあったじゃないか、と。死んだら、みんな、忘れつつも、少しずつ透明になっていく。思い出される事ごとは、丸くなっていく。

 

彼女が死んだのは、冬だった。

京阪電車深草駅に着いた時、母から電話があった。就職先の研修バイト帰りだった。そのまま僕はスーツで新幹線に乗った。

(切符を買うとき、何度も窓口のお姉さんに「この切符であってますか?」と聞かれた。はい、あってますと答えていざ改札を通そうとすると、バーが出て通り抜けできない。よくよく見ると、それは福山から京都に向かう切符。よほど帰りたくなかったからかもしれない)

冬の雪は、降っていただろうか。

 

今日、世界が終わるのかもしれない。

そんなことを思ったのは夏の、普段着の一日だった。

今日、僕が終わってしまえばいい。

そんなこと思ったのは冬の、一人暮らしの部屋の夕暮れだった。

 

気づけば、今日まで生きてしまっている。

いつのまにか、自分は死なないような気がしている。死ぬということを時々忘れている。目の前にいる、その人が生きているということを忘れている。何気ない言葉でその人の一瞬を殺してしまう。逆も然りか。

 

死んだものに耳を澄ましても

声は聞こえるのでしょうか。

生きているからといって、

声があるのでしょうか。

 

時々わからなくて、

僕はなんとなく笑いでごまかす。

ひとりになって、ごめんなさい。

と誰に謝っているのか分からず、

謝っている。